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2024年02月07日23:37

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「サン・セバスチャンへ、ようこそ」を見て。〜痛むこの胸を癒すべく、映画の記憶が頭の中をリフレイン。やっぱり、「人生は、祭りだ」〜

妬みからの告発が、業界のハラスメント問題を正す社会運動の相乗効果から圧力となって降りかかり創作活動に「制約」を架せられた中での新作のお目見え。

かっては、作品が公開となる頃には次の作品を仕上げ、あらたに撮影に取りかかるサイクルが出来上がって監督作品の実績をコンスタントに積み上げて来た。そんな作品群に描かれる主題や物語に惹き付けられているのは勿論、気になる方と席を隣り合わせて「作品」を見るひと時を初めて共有したのも(要は、映画デートである)そのうちの2本と、私の映画鑑賞歴と、私自身の対人形成にも、大きな「寄与」をしてくれたのが、ウディ・アレン師匠なのである。

小説家だとか、芸人だとか、音楽家もそうだろうし、ましてや映画の作り手も、題材やストーリーが変われども、その人ならではの「語り口」というものが出来上がって、受け手として追いかけていれば、それが馴染んで来て、また、それを欲して接すると云うもの。

さて、4年振りに届いた新作は、邦題では、観光へのお誘い的に響くのだが。原題は「Rifkin's Festival」となっている。リフキンとは、主人公の姓名で、フェスティバルとは、まずは映画祭を指しているのだろう。邦題は、その開催地を拝借している。頭髪も寂しくなって、お腹も突き出してルックスが残念な初老の男モート・フリスキンは、大学で映画学の教授を務めていたのだが、今はなかなか執筆がはかどらない小説家。妻のスーが、「広報」を委託されている男盛りのフランス人監督フィリップの作品が招かれたサン・セバスチャン映画祭に渡航するのに、モートはちゃっかり便乗して乗り込んで来たのだが。

妻のスーとは、既に空気のような「間柄」となっていて。今回、邪魔を承知でモートが同行したのには、妻とフィリップの浮気の嫌疑が内心増していたのだ。それでいて、リゾート地での解放感も手伝ってか、現地で見かけた同じく映画祭に訪れている知人の紹介で、診察してくれた女医に心奪われれば、片や妻とフランス人の親密ぶりにも気を揉んで。就寝の床の中や、散策中の風光明媚な景色を物憂げに視線をやれば、胸の内に抱える、疑念や想像が、モートが愛してやまない欧州の映像作品仕立てでもたげて来る「幻影」にモートは捕らわれるのだった。そうこうして、映画祭も最終日を迎えるのだが、モートは心惑わされたリゾート地の旅で「答え」を出す事となるのだ。

このモートの意識内に入れ替わり立ち代わり投影される、さながら「脳内名画」大会(フェス)を、まず原題は指しているのだろう。ウディ御大が、まだ駆け出しの1970年代、メガホンは、ハーバード・ロス氏に譲った自身の脚本作「ボギー、俺も男だ」では、御大自ら演じる主人公は「カサブランカ」が好き過ぎて、モノマネ演者演じるハンフリー・ボガードの幻影が現れて「対話」してしまう位に妄想が進んでいたりして。今作では、ハリウッドを離れたからかヨーロッパ作品が、「ネタ」にされているのだけど。

発表当時、先鋭的で感覚的と云われたトリュフォーとゴダール作品をモチーフにした場面が、主人公自体が、初老の域なのもあるセイか、モデルとした作品を思うと、鈍臭いというか、ゆるゆるのオマージュ仕立て。フランス人監督の男を入れた三角関係と云う事で「突然、炎のごとく」に模した妄想に転換すれども。そもそも、モデル作と違って、男二人に友情関係は皆無だから、例え同じように三人で自転車走行したところで、優先するのは友情か愛情かなんて緊張感は生まれようないし。同じく「勝手にしやがれ」を模した場面も、妄想の発想主をあざ笑うかのベタなコントシーンにも写ったし。

ウディ氏が、敬愛してやまないベルイマン監督作のモチーフ場面は、オリジナルの素養がほぼ無くて、総てのみ込めなかったが。最後の「第七の封印」からの死に神を、第一線俳優が手のひらかえしで師匠と距離を置いている中ワンシーン出演してくれたクリストフ・ワルツが演じてくれて。不吉な存在のハズなのに、地獄へ引き込む対象の人間の「体の具合」をやたら心配する言葉かけをしてその場を退いてゆくあたりは、勢いあった頃、翻訳出版された御大執筆の短編小説集に出て来た悪魔のバリエーション。そこは、思いもよらぬ演者の出現もあって、出自を知らぬとも可笑しみは伝わる。

メガホンを執った過去作にあって、明らかに意識しているのがF.フェリーニ作品で、本作でも「8 1/2」が、モートの幻影ネタとなっているものの、よく知られた「場面」は採用を避けている。中でも、ニーノ・ロータの郷愁を帯びた旋律にのせて、М.マストロヤンニが、祝宴の場に現われた人達に向けて「さあついて来てくれ、人生は祭りだ」と言い放って、皆が画面からはけて行って、寂しくなった野外ロケ地の解消が写されるあのシーンが、真っ先に思い出される。祭りとは、華々しく賑わうものだけど、それだけに終わりというのは寂しいもので。それを人生に重ねた、あのセリフはまさに名言なのだけど、本作の原題の虚実入り乱れた喧騒の映画祭も指す一方、原題にある「Festival」とは、フェリーニの有名作でも触れられている意味合いも込められているのかと、勝手にこじつけたりする。

本作の展開は、カウンセラーに対して、モートがサン・セバスチャン映画祭での日々を語る「回想」の形式となっていて。妻への疑念を深めながらも、日常から離れた観光地で、綺麗で教養もある女医とも楽しい時間を過ごせて、「ロマンスがもたらす効用」も実感するのだけど。妻との絆を回復する訳でもなく、リゾートのロマンスも、あくまでも安全パイの聴き手以上の余禄も得られず。どんなに映画の素養が高くとも、単なる映画ファンの一人に過ぎず、言い訳がましい事ばかり書き連ねるだけの世に認知されていない自称作家の域に留まる冴えない小太りな中高年独りであるのが浮き彫りになる。

作品群で、しばしば語られる「人生とは、無意味なものである」を、今回特に、身近な存在だった者の怒りと妬みからの騒動も経て、しかも、これまで手弁当で参加してくれる一線級で見た目も実力と遜色ない男優と違って、自身に通じるリアル感の強い長年のお知り合いウォーレス・ショーンさんが、分身役を買ってでてくださっていて、美化されてないのもあるから「痛み」を物凄く感じる。ただし、モートは、サラっとつぶやくけれど「それでも、人生は、無意味ではなかった。」と胸の内を吐露しているのが、救い。

過去作で、回想形式を取った作品で思い浮かぶのが「ブロードウェイのダニー・ローズ」です。演劇の街にある軽食屋で、居合わせた業界人が、ある三流マネージャーのエピソードを語らして、冴えないけど愛すべき「人物像」を浮かび上がらせる。それに対して本作は、分身的存在モートの独り語り。時折、欧州の名画風脚色が入る映画祭での嗤うしかない行状記を洗いざらい話した後に、映画の中では、カウンセラーが相手ではあるが、見ている者たちに対して、「こんな自分を、どう思う」って美化も言い訳もなしに、ありのままの自分を「提示」出来る、ウディ師匠の達観や、残りの余生に向けた覚悟にも取られて、あの見た目の裏にある「強さ」に敬服させられました。

特に今回、長きに渡る稚拙な文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
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