客演でしたが、白石和彌監督作の「ひとよ」での舞台となる小さなタクシー会社に配車係りとして献身的に支えつつ、年下運転手と心身の隙間を埋めて。社会という仕組みに生きるタテマエと、生命の欲動に流されるやるせなさのヒトの表裏で印象付けられた筒井真理子さん。数少ない主演作を見逃がし、また次の機会が来る機械を密かに待っておりました。しかも度々見送られて来た荻上直子監督との共作なので、まさに千載一遇の機会の到来。
筒井真理子さん扮する須藤依子は、10年前に夫の修が家出をして、息子拓哉も社会人として独立。死去した義父の介護も数年前に終えて、一戸建で独り暮らしを送っていた。そんなある日、修が突然自宅に戻り、依子に癌を患っている事を告げ、治療費を催促する。パート先では、クレーマー老人客に悩まされ。滅多に帰省しない拓哉が顔を見せに来たかと思えば、
同伴した年上の聴覚障害の女性と結婚するといきなりの報告。
断り無しに降って湧いた出来事に振り回される依子なのだが。それにしても、反発するとか、自己主張に欠けてはいないか。それは、依子が拠り所とする新興宗教の教義にあった。崇める「水」の如く、波の立たない平穏な日常を、ひたすら祈る「他力」でもって、その実現到来を待つ姿勢。依子の平穏は、祈りにすがって取り戻せるものなのか。
「絶望を笑え」と、キャッチコピーにあります。時を経ても絶えない夫婦、家族問題から、新興宗教、高齢者介護、障害者問題だとか新旧の悩みのタネに対して、女性の作り手ならではの視点、切り口から、ラジカルな展開を想像して臨みました。夫や息子、ご近所の方だとか、目に見える実体はアテにならなくて、祈りというか目には留まらない「なり行き」だとか「無」にすがるしかないのか。
修の家出で、彼が育てていた植物を根こそぎ抜いて、依子は、庭先に枯山水を造成していて。水は無いけれど、砂掻き棒で丸や波型を描いて、せせらぎや池などに見立てる。実物は無いけれど、有るかのように見立てる。それとは別に、当事者たちが、水面に立って主張によって波紋が広がって、相手の水面を浸食するイメージも挿入されますが。「わびさび」が、ヒロイン依子の心模様のモチーフとなっている。
コンプライアンスも高まって、あまりにも家出した夫や、息子の言い分を受け入れ過ぎやしないかとも過りました。でも、我慢を強いられるのが現実なのかもしれません。そして、実年齢を聴くと驚く、成熟した筒井真理子さんの美貌が活かされた、生命力みなぎる展開を見る前は、思い描いていたけれど。「絶望を笑え」のコピーが、実証された展開には中々、巡り逢わなかった。
エンドタイトルを見て、あれがそうかと思い当たった、識別不能な扮装をムロツヨシさんにさせてまで、修役の光石研さんに、「雌カマキリが雄を共食いすると産む子供の数が倍違う」と語らせるのも、緩ませるにしては粘った場面だったけれど、それが結実する場面に到達した時に、世に多そうな男性への当てつけと見せつけるのが判るまで、間が長かった分、刺し傷が意図よりも浅かったかもしれない。
宣材には舞台と全身が写っておりますが、和装の喪服に裾から赤い襦袢をのぞかせて、枯山水の上で、筒井真理子さんがフラメンコを舞って、待ち望んでいた、生命力に満ちた実体感に触れられました。依子の再生、再出発としては、艶やかな装飾です。ただ、依子を取り巻いていた、「息苦しさ」に風穴を空ける描写があったら、キャッチコピーも伊達では無かっただろうに。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
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