初公開時以降、気にはなっていたのだが。40年以上の時を経て、ようやく、銀幕で目の当たりに出来ました。上映時間3時間前後の作品は、現在も、当たり前に御座いますが。劇的要素が垣間見える様子のない、行動描写の積み重ねに時間を割いて。今の感覚なら、受け入れ難そうなところ、1970年代の受け手側に、映像への許容度と云うか、慣れや耐性が備わっていたのかと、思い及ぶ。
60年代末、ペンシルベニア州の山深い鉄工所に働く、マイケル、ニック、スティーブン
は、ベトナム戦争への徴兵を翌日に控えた仕事明けから、仲のいい同僚三人と共に、何時ものように、バーで過ごし、スティーブンの結婚式と披露宴から、翌朝の鹿狩りまで、故郷で仲間と過ごす出兵前の「自由」を満喫する。
上記の経過が、本編中の「尺」が、長く割かれているかの体感。ベトナム出兵とは関係ない三人に、彼らに係るガールフレンド、新婦との関係や、抱える事情も織り込まれてはいるのだが、短い動画に慣れたムキには、相当の辛抱が要するのではないかと気を回してしまう位の腰の据わった描写の積み重ね。そこから、本作の問題の場面、出兵した三人が、戦場で出くわすロシアンルーレットに至るまでは、戦場の描写が唐突に現れてからは、さしたる時間は、掛けられておらず。
この経過による訴求効果としては、まず、無為としか映らない安寧の日々なぞ、狂気が日常となる戦場では、砂上の城の様に、いかに儚いものかを知らしめてくれて。そこまで見る者を導くために、悠長とも見做される手立てが作り手にも、見る側にも受け入れられていた事に、当時から現代に至る、映像はじめとする芸術への意識の移り変わりを、どうしても感じてしまう。
そして、現代では、冗長とも思える前半の描写にあって、タイトルの由来でもある鹿狩りで、獲物の鹿を銃弾一発で仕留める「美学」をマイケルが、最良の狩の相棒のニックに説くのだが。そのマイケルとニックが、異国の戦場で、リボルバー銃の回転式弾倉に込められた「一発」に、自身の生死の運命が託される事で、戦地に赴く前は、生殺与奪の権利を握っていたのが、逆の立場を味合わされる。持久戦的意味合いの描写には、奥深さも垣間見える。
車椅子生活者となってしまうスティーブンの様に、明らかな戦傷もあれば、本国に帰還せず、死の影に魅入られて、死人のように戦禍の異国で存在するニックの様な、心に負う傷の深刻さも、窮地を脱して本国に見た目は五体満足に生き延びたマイケルを通して見せる。
ベトナムから、スティーブンに送られる「高額な寄付」から、マイケルは、ニックのベトナムでの居場所を探り当てるのだけれど。闇賭博として行われるロシアンルーレットの米国白人の出場者として、別人格に変わり果てたニックは、対戦相手を買って出たマイケルの呼び掛けも虚しく、生死の淵を踏み外してしまう。
無言の帰国となったニックの葬式が終わって、馴染みのバーで、残った五人と、その妻や女友達らは、愛国歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」を合唱するのだけれど。友人の「死」に対して、厭世気分や、戦争への怒りにかられ、ニックを偲ぶのであれば、出兵前、仲間と飲んだくれていた際に皆で、口ずさんだ「君の瞳に恋してる」(のちに、これを歌うフランキー・ヴァリらを描いた映画「ジャージー・ボーイズ」に、クリストファー・ウォーケンさんは、出演していますが。)を歌うのが、相応しい気もしますが。
マイケルは、ニックの最期の「真実」を、他の皆には、公表しておらず、ただ名誉ある「戦死」として、押し通すために、敢えて、国歌を手向けの歌としたのかと云うのは、あまりに、うがった見方だろうか。
マイケル役のデ・ニーロさんは、仲間やベトコン兵士の厳しい責めまで、総てに対する受け役に徹しられて。本作でのデニーロアプローチは、鹿撃ちだったのかしら。当時デビュー間もなかった、大御所メリル・ストリープさんの、しがない街の小娘役というのも、新鮮でした。しかし、本作では、何と云っても、ニック役のクリストファー・ウォーケンさんの純真素朴な出兵前と出兵後の、やせ細って死に魅入られたかの虚無的な顔つきへの変貌ぶりが、否応なしに目に留まります。
そして、公開当時、FMの映画音楽番組で、エアチェックした、ギターの旋律に心洗われる「カヴァティーナ」を、あらためて本編で聴くのも、劇場へ出掛けた目的の一つでした。鹿狩りを行う、雄大な大自然の中、鹿を追い詰めるマイケルに被せて流れるのを、良い音響で聴き直せて、積年の思いを、ようやく果たせました。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネマサンシャインららぽーと沼津 シネマ6にて
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