昔、学芸大学の松岡教授と『本朝文粋』を読んでいた時、詩論は多いが、文章論は聞かないという話になり、日本人で漢文の文章論を書いたものがいないか探して、斎藤拙堂(1797-1865 諱は正謙、字は有終、通称は徳蔵。号は拙堂・鉄研)の『拙堂文話』を読んでみようということになった。
そして見てみたら、これがただの「江戸随筆」の類で、文章論ではないとわかり、がっかりしたことがあった。
そういう点で、入矢義高の「語録の言葉と文体」は、文章論と言えそうなので、まぁ、文学をやるほどの人なら読んでおいた方がいいだろうなと思うから、読んでの感想を書いておく。
入矢先生は、こう書く。
唐代の禅は、セクト分けや国家権力による統制や権力への忖度などがほとんど無く、「禅者は文字通り自由に、おのれの信ずるがままに語り、かつ行動することができた。従ってそれらの記録は、宋代以降のものに比べて、遥かに個性色が豊かであり、溌剌としている。それぞれの禅師の一言一句も、その人ならではの言葉として提出されたものであり、その人の全人格によって裏打ちされている。紋切り型の、ありふれた常套句を使うことは全くないと言ってよい」
三武一宗の法難の一つである唐の武宗の仏教弾圧があった唐代が、果たしてそんなに言論の自由があったのかどうかわからないが、入矢先生の見解では禅僧たちは自由に発言していたらしい。
「しかし、説法にせよ、問答にせよ、それを記録にとどめるのは、当の禅師ではなくて、その弟子たちであった。彼らは師の説法や答話を聴いたあとで、忘れぬうちにそれを書き留めたものと思われるが、その記録がたとい師の語った言葉通りの再現ではなかったにしても、果して師の法の真実を誤りなく、かつ過不足なく伝えたものになり得ていたのかどうか。それを疑い始めたら、収拾がつかなくなる」
だからこそ禅家では「不立文字」だの「拈華微笑」だのと言葉を否定するようなことを言うのだが、その割に禅僧の著作は多いし、建仁寺の両足院のように、書籍もよく集めている。
「一つは、記録者その人の、求道者としての力量の問題があり、第二には、その人の表現力の問題がある。さらに第三には、師の説きかたそのものが、いわゆる「対機説法」的に、相手の機根に応じての親切な解説であったか、或いはそうでなしに、一切の方便を介在させぬ真っ向からの第一義の開示であったかという問題がある」
この辺は、前出の「南泉斬猫」が猫を斬るのは一緒でも、原因など、様々な話として伝わっているところを見ても伺えよう。
「更にもっと複雑なケースがある。それは、平たく言えば、師に対する弟子の思い入れが余りにも深すぎるため、師が実はそこまでは言っていないと思われるのに、彼の聴き取りかたの方が、内的な増幅によって、師も驚くであろうような言葉に飛躍して記録されるという場合がある」
こうした例として、スピノザ(1632-1677 オランダの哲学者)に打ち込んでいた友人を例に出した。
その友人は、「スピノザは、人間が死ぬことができるのも神の恩竉だ、と言っていますよ」と言った。
そんなこと言うわけがないと思い、該当箇所の提示を求めたが、彼は該当箇所を提示できなかった。
彼の思い込みだったというわけだ。
スピノザにとっての神は、雲の上に座っている老人というようなものではなく、絶対無限のものとして、外側のないもの、すべては神の内側にあるもの、という存在だと定義されていた。
だから我々も含めて、森羅万象すべてが神の一部である。というようなことになる。
日本の八百万の神に近い汎神論で、神はいると言ってもいないと言ってもいいような存在ということになる。
人格神を想定していた一神教信者から無神論者と罵られるのだが、人格神でないから、神の恩竉などと言うわけがないということだろう。
しかし、死ぬことができるという考え方は現実肯定であり、それはありうるだろうと解釈していったのではないか。
アインシュタインは「私はスピノザの神を信じる」と言ったそうだが、彼は人格神が悪魔と賭けをしてヨブをひどい目に合わせるような存在だとは思わなかったわけだ。
「求道の心が深まれば深まるほど、おそらく人はだれでもこうなるものであろう。そしてそれは、その人の成長にとって貴重な経験として生きつづけることであろう。しかし、それが或る古人の一時期の体験として進行形でなしに記録され、その後の歩みと切り離された形で定着してしまうと、後世の読者は真実を見失うことになりかねない」
それは、その通りかもしれない。
大した人物でなくても、弟子の思い込みで偉人になっている人がいるのかもしれない。
この「思い込み」ということで連想するのは、東大の前野直彬(1920-1998)教授の事だ。
友人が大学院で教えを受けた第一印象は「頭いい〜」だったという。
大変切れる方だったということだ。
しかし、難は読み過ぎることだという。
そんなこと、どこに書いてあるのというくらい思い込みを働かせて読んでしまうのだという。
読めてしまうから思い込みも取り込んで広げて解釈してしまうというのは、まさに師に対する思い入れが余りにも深すぎる弟子と同じではないのか。
禅の語録もまた、宋代以降は思い込みで読んでくれよと言っているように見えるが、私の思い込みかもしれない。
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