「時をかける少女」チックな、アオハルジュブナイルも想起させる邦題だけど。作品イメージを負わせた女性主人公の対となる、冴えない青年グアタイと比べたら、見栄えは違う訳で。マーケティング上は、彼女を立てるのは致し方ないかなと。
単館系作品隆盛期に、ジャック船長役で、足元を掬われる遥か前のジョニ・デ兄ィ出演、「アンダーグラウンド」発表前のエミール・クストリッツァ監督作品「アリゾナ・ドリーム」と同じく、現実空間と気ままに泳ぎ渡る魚をコラージュした画像が、引っかかった1995年に「熱帯魚」を撮った台湾のチェン・ユーシン監督と、漸く邂逅となった本作でしたが。
こちらと違って、台湾現地では旧暦の七夕にもバレンタインが、有るらしく。きっかり1秒とは限らなくもテンポが人より早い特異な、おひとりミソジ女子であるヒロイン、シャオチーには、縁が無いと思っていた、そのバレンタインに、巧い具合重なって巡って来た「我が世の春」が、1日ゴッソリと、特異体質が祟ったのか失われてしまった原因を「検証」するのが、大まかな本作の流れ。「熱帯魚」の宣材から想像したシュールな作風なんかでなく、大らかな「仮想」をダシに、たとえ独り身でも、イベントデーに左右されず、自分自身を労わり愛するのが肝心であるのを、ゆったり、そして所々微笑ましく伝えてくれる。
シャオチーに扮するチャン・ユーシュンが、日焼けの赤ら顔で画面奥から駆け込む勢いのまま、交番で、「失われたバレンタイン」の捜索を懇願して、それに対して、跳ね除ける訳でもなく親身に対応する警官。意表を突くと共に、台湾現地ならではの問題提起から、見る人達に問題意識を植え付けようではなく、現実離れした、穏やかな空気が作品を満たす「お断り」であるかのようで、考えるより、ここから起こる「あり得ない出来事」がシャオチー視点で、差し出されて、彼女とは別目線による再検証まで、感じた方が得策。何事にも、他者よりテンポの速い生涯を送って来たが為に、報われないアラサーお一人様の境遇に貶められたシャオチーを、親戚気分で、暖かく見守っておりました。
せっかちの決めつけだけでは、説明の付かないシャオチーのバッドタイミング半生。節目の記念写真が、見事に目をつぶった表情のみで埋められるだとか。職場である郵便局では、自身よりも肌のハリがあって、アザとカワイイ年下女性社員に対してヤッカミからのセクハラに等しいイジリは、となりの窓口を守るオバサンОLの域に入ろうか。それでもって、公園で行われているフリーのダンスレッスンで急速に距離が縮まったワイルド講師と、バレンタインデートの約束を取り付けて、舞い上がった気持ちを、今や古びたメディアのラジオDJに電話で伝える様子が、住んでいるボロアパートの窓外で、寸劇的に展開する。はたまた、クローゼットを開けると、部屋の番人イモリが、擬人化して、生涯の忘れ物を思い起こす手伝いをしてくれて。
このように台湾の街に独り身で20代を働き続けたなりの気概だとか、自己実現なんてものを垣間見せないから、働く女性としての社会的立ち位置だとかは、意識外に追いやって。彼女の幸福追求の達成に気を揉みつつ、ハイソに程遠い雑然とした生活を彩って、スゴぶる美人でもないけれど、人懐っこさ優しさといった魅力を際立たす、あざとくない程度に土臭くもファニーな描写も時折挟んで進む。
そんな調子なので、失われたバレンタインの日の解き明かしとして、こちらはテンポが、他人より遅い定期バス運転手グアタイ目線で語られる、人知を超えて、モノの道理では説明も及ばない「ある出来事」が、あまりに普通に目前に広がっているので、中には、釈然としないものを抱える方が居ても、おかしくないかも。
「あの日、あの時、あの場所で」って、小田和正さんが、歌で投げかけていますが。世の中には、出逢いにおける時間の概念を、SF的仮想前提を使って、面白おかしく、かつロマンチックに、幾つもの作品で問うてます。あの大切な人とのイベント日の出来事は、理屈によるコジ付けで解くものではありません。シャオチーが、うさん臭いダンス講師と、あまりに交際が巧く進み過ぎて、DJに悦びをこう打ち明けます。「今まで、セッセと荷台一杯に徳を積みあげたトラックと、正面衝突したくらいの衝撃」と。そう、罪とか罰だとか、その時の行為だけでの判断でなく、過去から今未来へと続く「時間」全体トータルの中での行いで、良い事、悪い事は、訪れるものとする、東洋的、仏教的な感覚で、あのくだりは、理解、把握するもの。
他者と比べて損が多い生き方をして来たとしても、生涯通して見たら、「帳尻合わせ」が働いて、割を喰った分が取り返される、収支トントン、プラマイゼロで、結果的に周りを羨むばかりでは無かったりする。劇中の説明の効かない出来事は、そんな肯定感を受け取るものではないかと。
でも、よく見ると、万事が損をして来た当事者の思うとおりでは無くて、肝心のお相手は、皆と一緒にフリーズしているし。その間、世界は、自分の思うままだけれど、そこで、お花を摘み取ってしまう暴挙を留まって、思い出作りに終始したのと、ただひたすらロマンスを追っかけている以外に頭を使ってなさそうな印象のシャオチーが、抱えている「喪失」を起こした人に出逢ってしまって、彼女に知らぬところで、痛みを共有するのも、展開する絵空事にあって、気を惹く描写です。ネタバレ回避のため、分かり難い書き方で申し訳ないですが。
登場人物が、本作ではバスだとか、電車といった乗り物で、移動するのを捉えるのは、風景の変化が心情のうつろいを代弁させて、今年もそんな描写がある作品を幾つも見てきましたが。海辺の町の海面に囲まれた一本道を、乗り合いバスが進んで行く情景の輝きは、登場人物の胸の高まりを際立たせていて、素晴らしいロケーション。
ヒロインがラジオを聴くのと併せて何故、スマホの時代に、男がレトロなカメラを提げて歩いているのかとか、手紙を送らねばならないのかだとか、シャオチーの覚えのない、ちゃんと目を開いた写真が、カメラ屋の店先に飾られているとか、小ネタが散りばめられているけれど。「人生の記憶と云うのは、パズルの様なものだ」と、忘れ去ってしまう出来事があって、いまの自分が居る事に繋がっているのを見せる心配り。決して、都合よく物語ってはおりません。
失っていたものを、互いが自力で回収して、導かれた出逢いは、誰もが期待する甘いものでありながら、心に、そっとのしかかる、適度な「おもみ」がある分、味わいも含んでいる。その時、彼が手にしていた緑豆トッピングの「豆花(トウファ)」って、スイーツの味は、残念ながら、想像を働かせるしかないけれど。
シャオチー役のリー・ペイユーさんが、英語で歌う挿入歌「Lost and Found」も、澄んだアレンジと、チャーミングな歌声が相まって、東洋圏の湿りを含んだガサついた感じの中、ポップ感を醸すのに一役かっていました。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございます。
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