mixiユーザー(id:5919811)

2018年08月28日19:22

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旧友と会ってました。

旧友と会ってました。
彼とは かれこれ半世紀の付き合い。
彼の父上の話が面白かった。

早稲田大学で、安倍磯雄の弟子だったのですが、在学中に二度逮捕歴あり。
一度は、発禁の改造を持っていたからだそうですが、もう一回も治安維持法関係。
卒業後、満鉄に勤めて、ソ連国境に近い小さな駅の駅長になったそうです。
駅が宿舎でもあり、日本人は一人だけ。
高給に魅かれてなったのだそうですが、馬賊がいつ襲ってきてもおかしくないところで、前任者は中国人の部下に殺されていたので、行く人がいないから高給になったとのこと。
中国人にバカにされたら自分も命を狙われるかもしれないと思って、極寒の駅で、出勤してくる中国人に見せつけるように水を被り、湯気が出るのを見せたとか、幽霊が出て、血だらけになった死体が見つかったことがあるというトンネルで一晩寝たりとか、とにかく、肝が据わっているんだというところを見せつけた。
馬賊に囲まれたこともあったみたい。
そこに2−3年いて、恩師の安倍磯雄の紹介で、17軍の民生部門に就職し、上海へ。
そこで、中国との和平工作や東条内閣の打倒運動に加わって、憲兵につかまり、懲罰徴兵されてインパール作戦に参加させられる。
すでにバシー海峡は輸送船の墓場になっていて、彼らの乗った船も潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
そのとき、護衛に当たっていた巡洋艦が、割って入って、魚雷を受けてくれた。
そのおかげで、タイに着くことができ、銃弾36発を与えられてビルマに行かされた。
当座の食糧はあっても、すぐになくなり、持たされたヤギも、持つものではない。
昼間は英軍の飛行機の爆撃を受けて進軍できず、夜間に進むしかなく、兵たちは、熱帯病などで次々に倒れていく。
彼らの師団長は宮崎と言う人で、牟田口廉也司令官と対立して責任を取らされても撤退を選択した。
なので、他の師団が3割くらいの生還率だったのに、もっと多くの人が生きて帰ることができた。
彼の父上は、マラリアになり、途中まではトラックに乗せてもらったが、途中からは歩かされた。
ふらふらになりながら歩いていくと、道の傍らに、木にもたれて座っている日本兵が何人もいる。
近づくと手を合わせて何か言っている。
耳を近づけると「殺してくれ」と言っている。
さすがにそれはできないが、かといって、介護して連れて行くほどの体力は自分にはない。
目をつぶって先に進むと、後ろで銃声が聞こえた。
誰かが殺してあげたのだなと思った。
やっとの思いで、基地にたどり着くと、牟田口廉也が馬に乗ってふんぞり返っている。
「司令官殿に敬礼!」と言われて、弾が残っていたら、こいつ殺してやったのにと思った。

なんて話。
この後、タイの病院で回復して、また前線に送られるのですが、この後のことは、そのうち彼が書くかもしれないから、この程度でおしまい。

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