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2016年09月19日19:21

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『「聖書外典偽典」 3 旧約偽典1』所収の「アリステアスの手紙」(1)

本書の紹介に関しては、概説をコピペすれば簡単なのだが、それでは勉強にならないので、自分の理解を書く。

これは長文の手紙になるのだが、こうした文学形式は、聖書でも使われているし、その後の文学、例えば、マルグリッド・ユルスナルスの「ハドリアヌス帝の回想」にも、マルクス・アウレリウス・アントニウスに宛てた長文の手紙として使われていて、西洋の文学形式に組み込まれているものなのかもしれない。
自分が興味深かったのは、イエスが活動していたのと近い時期に、律法がどのように解釈されていたのかを知る、手立ての一つであること。

本書は、ギリシャ語で書かれ、11世紀から16世紀の古写本が20冊くらい残っている。
最初の出版は、1561年にバーゼルで行われ、1870年にパリで校勘本が出版されているとのことだが、煩雑になるので、その後の出版については書かない。

内容は、「律法」のギリシャ語訳は貧弱なものなので、新たに翻訳をする計画をたて、実行するというものであり、その間に、ユダヤ民族の優秀さや、律法の深遠さを語ったりしている。
そして現在、内容を、以下の如く、5部に分類している。

1部 律法の翻訳実現のために使者を派遣することに関する記述。
2部 ユダヤ・エルサレム等見聞記。
3部 大祭司の翻訳者選択と、彼の律法解釈。
4部 王の饗宴と謁見。翻訳者たちとの質疑応答。
5部 翻訳の実施と完成。翻訳者たちの帰還。

いつの時代の話かというと、フィラデルフォス期(前287-247)に王の命令を受けてエルサレムに行ったアリステアスが書いたということになるのだが、これには疑問が出されていて、以下のような制作年代の説がある。
1.ローマ帝国期。ヘロデの死後、大祭司に権力が帰された時期。
2.プトレマイオス後期。前100年前後の時期。この時代の用語法が似ているという事から。
3.セレウコス王朝のアンティオコス三世がユダヤを征服した、前198年乃至168年頃の。まだ大祭司が力を持った平穏な時代。

いずれにせよ、イエスに近い時代を知る一助にはなろう。

最初に目に停まったのは、こんな部分。

「王室図書館長、ファンロンのデメトリオスは、できれば世界中のあらゆる図書を収集しうるよう、多額の金を受け取りました。そこで、買い求め、転写して、能うるかぎり、王の意図を達成したのです。
わたしが席につらなっていた時のこと、彼は何万冊の図書が手に入ったかと問われて、
「二十万冊以上にのぼります。王さま。が、近いうちに、さらに残りも努めて求め、全部で50万冊にいたします」

と答えている。
この本が入る「王室図書館」が、アレキサンドリアの図書館だとしたら、70万冊とも伝えられる最盛期の蔵書につながる収書の話だろう。

ここで先ず書きたかったのは、キリスト教徒によって、裸にされ、生きたまま蠣の殻で肉を骨からはがすという残酷な方法で虐殺された、女性学者のヒュパティアのことなのだが、本題ではないので、主にウイキペディアからの引用で補う。


ヘレニズムまでの蔵書の宝庫であったこの図書館、最初の災害は、プトレマイオス朝末期のユリウス・カエサルの侵攻時(ナイルの戦い (紀元前47年))、港の艦隊の火災が延焼して焼失したこと。
その後ローマ帝国の下で復興したのだが、270年代のアウレリアヌス帝時にも内戦による被害を受けている。
しかし最悪の打撃は4世紀末以降のキリスト教徒による継続的な攻撃。
5世紀には当時のキリスト教徒大司教の使嗾のもとにヒュパティアの虐殺(415年)などの蛮行を繰り返し、大図書館やムセイオンをも破壊した。このようなキリスト教の蛮行によりヘレニズム学術の貴重な成果の大半が失われた。
以上、ウィキペディアによるが、ヒュパティアの虐殺も含めて、文化の破壊者がキリスト教徒であったことは、その後から現代にまでつながる文化の破壊が、イスラム教徒の専売特許のように考えている人たちが、知っておくべきことだろう。
多様性を容認できない一神教徒がやったことなのだ。

※ヒュパティアの虐殺(ウイキペディアによる)
 ヒュパティア(Ὑπατία, Hypatia、350年〜370年頃 - 415年3月)は、ローマ帝国アエギュプトゥスの数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者。ハイパティアともヒパティアとも呼ばれる。
 アレクサンドリアのテオンの娘であり、ヒュパティアは400年頃アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行ったという。キュレネのシュネシオス(その後410年頃にキレナイカ地方のプトレマイス(en)の司教となる)との間で交わされた彼女への書簡のいくつかはまだ現存している。
数学と哲学の教えを、新プラトン主義の創始者プロティノス(205年- 270年頃)と新プラトン主義のシリアでの分派の創設者ランバリクス(250年- 330年頃)という2人の新プラトン主義者から受けた。『スーダ辞典』("Σο?δα", "Suda" 『スイダス』とも。10世紀末の百科事典)によると、ヒュパティアはディオファントスが著した『算術』 ("Αριθμητικα", "Arithmetica") にも、ペルガのアポロニウス著の『コニクス』にも、そして、天文のカノン(おそらくはプトレマイオスの『アルマゲスト』)に関しても著述したという。彼女の父(テオン)の著した『アルマゲスト解説』第3巻にも彼女が加筆したとも伝えられる。『算術』の現存しているアラビア語版の一部として断片的に残っているが、現在これらの著述は失われている。
彼女のアストロラーベ(天体観測儀)とハイドロスコープ(液体比重計としてピエール・ド・フェルマーによって17世紀に確認された)の発明については、彼女に意見を聞いたシュネシオスの手紙の中で知られていることから、彼女が特に天文学と数学に専念していたことを示している。また、彼女による哲学の著述も全く存在は知られていない。

新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。
それでも、「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という彼女のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。
その時すでに彼女は、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされたのである。これは、後にヒュパティアの運命を大きく変えることになる。

キリスト教徒であったテオドシウス1世(当時379年から392年までは東ローマ帝国の皇帝、その後395年までは全ローマ帝国の皇帝)は、380年に異教と異端のアリウス派に対してローマ帝国全域での迫害の方針を定めた。
391年、テオドシウスはテオフィロス(アレクサンドリアのキリスト教司教)の求めに答えて、エジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えた。キリスト教の暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には法律で暴力、特に略奪とユダヤ人のシナゴーグの破壊を抑えようとの試みがなされた。
だが、412年、アレクサンドリアの総司教の職権が強硬派のキュリロスへと継承された。この後に、新たな異教徒の迫害および破壊活動が起きた。
そしてキリスト教徒の集団により、414年、アレクサンドリアからのユダヤ人の違法で強制的な追放がなされ、緊張がその頂点に達する中、ヒュパティアの虐殺事件が起こる。

415年、四旬節のある日、総司教キュリロスの部下である修道士たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した[1]。
ギリシャ語で「カキの貝殻(ostrakois;oystershells)」という言葉が使われているが、これはギリシャではカキの貝殻を、家の屋根などのタイルとして使用していたことに由来する。英語では、「タイル(tiles)で殺され、体を切断された後、焼却された。」と訳されている[2]。
キュリロスは、アレクサンドリアから異教徒を追放した功績者として大いにたたえられた。その死後、彼は教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられている。ヒュパティアの無惨な死は多くの学者たちが亡命してしまうきっかけともなり、古代の学問の中心地であったアレクサンドリアの凋落を招く一因になる。
これらの事件により、ピタゴラスの誕生から綿々と続いてきたギリシャの数学・科学・哲学の歴史は終焉する。劇的な虐殺の詳細と共に、博識で美しい女性哲学者としてのヒュパティアの伝説は、後世多数の作家(例えばチャールズ・キングズリー/Charles Kingsley)の『ヒュパティア 古い相貌の新たなる論敵』(1852年)など)の文学作品を生み出した。


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