宋になって、禅宗は発展するのだが、問答において、唐時代のような問い返しの機能は考えなくなっていった。
そして問答が、答の導き出せない、非論理的、或いは超論理的な言葉のやり取りだと解釈されて、「公案」と呼ばれるようになった。
「公案」とは本来、役所の文書の意。
公務員が解決すべき案件、或いはその案件が書かれた文書が公案なので、転用されて、禅の修行者が解決すべき課題・案件として使われた。
唐代の問答には、その前提を理解すれば解釈できる余地があったが、宋代の公案は、最初から問いと答えの間に連絡・論理的なつながりがない。
繋がりがないから、修行者から理屈を取り去って、実体験から悟りを得させることができるものと解されるようになる。
日本に伝わった禅は、宋代の禅だった。
だから、禅の問答がトンチンカンだというのは、あながち間違ってはいなくて、宋代ではそういう扱いを受けていたということなのだ。
中国の禅ではそれが到達点だったが、日本の禅ではそれが出発点だった。
大慧宗杲(1089 - 1163)の看話禅。
※以下Wikipedia「曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。
宗杲は、公案を用いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅し、その疑問を打ち破ることにより悟りへと向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。
対立する正覚は、悟りという目標を設定することによって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避けるために、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れるとしたので、宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判した。
この臨済宗と曹洞宗の理論的な対照は、宗杲と正覚の当時から現在の日本にまで継続している。
しかし当時の中国社会では、宗杲の理論が支持を受け、臨済宗が大いに隆盛することとなった。」
※以下、维基百科,自由的百科全书
「年譜
十七歲時依東山慧雲寺慧齊法師出家。
宋徽宗宣和六年(公元1124年),至開封天寧寺,依止於圜悟克勤禪師門下,參學開悟。圜悟克勤禪師以其所著《臨濟正宗記》付囑之,並令宗杲分座說法,因而名震京師,成為楊岐派第五代傳人。
靖康元年(1126年),丞相呂舜徒奉賜紫衣,賜號佛日大師。
宋高宗紹興七年(1137年),受宰相張浚之請,住持徑山寺,人稱徑山宗杲。
紹興十一年(公元1141年),秦檜解除韓世忠、張俊、岳飛等三大帥的兵權,與金朝議和,岳飛下獄處死。宗杲因為對金朝主戰,受到牽連,遭追回度牒,流放衡州〈今湖南衡陽〉[1]。
紹興二十年,秦檜因為宗杲的跟隨者甚多,心有猜忌,又將宗杲改流放至梅州〈今廣東梅縣〉。宗杲於此時收集圜悟禪師語錄,編成《正法眼藏》一書。
紹興二十五年,秦檜死後被赦,隔年恢復僧服,住杭州靈隱寺。
紹興二十七年,因張浚向朝廷舉薦,再主徑山,創看話禪法。
紹興二十九年,宗杲上表乞退,離山至四明育王寺,朝廷先後派人至四明,召使還徑山。
紹興三十一年,建徑山明月堂後隱退,但仍然有許多學者上門向他請教。
隆興元年(公元1164年),宋孝宗即位,召見宗杲,賜號大慧禪師。同年,圓寂,壽七十四歲,諡普覺禪師。
思想及影響
大慧宗杲提倡所謂的話頭禪(又稱看話禪),要人參趙州禪師的無字話頭。
他鼓勵學者起疑情,以疑情參究公案,而得到開悟。宗杲認為,修行必須在生活之中,反對遠離塵世,獨自修行。
因此,他大力排斥當時流行的默照邪禪,認為它會造成學者終日只知靜坐,是在「斷佛慧命」、「墮在�郢害宍慣⇔�」,有默無照,是邪禪。
但是他與默照禪的主要倡導者宏智正覺禪師卻是好友,儘管宏智正覺所教授的是默照同時的默照禪。
禪宗楊岐派在他手上推至最高峰,他的禪法,對後世禪宗形成深遠的影響。
南宋理學也深受他的影響。」
※看話禅は、公案によって小賢しい理論を捨象し、日常の行為から悟りを体得して行くという手法で、臨済宗となり中国禅を席巻した。
日本に伝えたのは俗っ気の旺盛だった栄西だが、その後、中国から亡命してきた禅師たちによって盛んになる。
大慧宗杲は「庭前の柏樹子」をこのように使う。
臨済宗中興の祖と言われる五祖法演禅師の言葉として、以下のような話を告げる。
前出の「如何是西来意」と聞かれて、「庭前の柏樹子」と答える。
このように理解してはいけない。
「如何是西来意」と聞かれて、「庭前の柏樹子」と答える。
このように理解しなければいけない。
(弟子)諸君はわかるか?
こういう話は、諸君にわからないだけではなく、私にもわからない。
そもそも、我が法門には、理解できるとかできないとかいうものは、無いんだ。
鉄の牛に蚊がとまったように、クチバシをはさむものが一切ないのだ。
吸い出すこともできない。
これは公案から、いかなる意味も分析ができない。いかなる意味も吸い出すことができないと言っている。
いくら考えても答えが出ないものを全身全霊で考えて行って、自分を追い詰め、意識、或いは心の大爆発のようなものを起こし、超越的な実体験に至る。
宋時代、そのような形で禅の修行が行われるようになって、それが日本に伝わってきた。
唐代には意味のあった問答を、宋代には意味が理解できないものとして使った。
日本の、白隠の「隻手音声(片手の拍手の音を聞いてこい)」なども、その主旨から逸脱するものではないし、最初から答えの出ないものとして作った点でむしろ、主旨をより正確に表明しているものとなる。
白隠が悟りを開いたのは「無字の公案」であった。
※有名な公案。「趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし。犬のこと)に環(かえ)って仏性(仏としての本性)有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無」 」
これを『趙州録』で見ると、趙州の答えは、ある時は「無」であり、ある時は「有」であるので、元々はそれなりに意味があったものだろう。
しかし、宋代になるとこの脈絡を切り落として、「無」という答は、有る無しを言っているのではなく、絶対の「無」なんだという理解になる。
そして、無になりきれということになる。
「隻手音声」白隠が考えた公案だが、これを使ったところ、修行僧の成道が格段に早くなったという。
曹洞宗の位置づけ。
宋代の禅宗は公案禅である。
その中に、文字禅と看話禅があった。
文字禅とは、公案に寸評をつけたり、主旨を表す詩を作ったり、問答と詩をセットにして講義をしたりするスタイル。
『碧巌録』『無門關』等のようなもの。『正法眼蔵』も、広い意味ではこちらに入る。
看話禅は、文字禅を批判・淘汰するようなものではなく、看話禅で悟って、文字禅で表現するというような趣旨。
※五山文学などもこのスタイルだろう。
「不立文字」「教外別伝」などと言いながら、禅宗に文字作品が多く残るのは、このようなことから。
日本では、文字禅は、漢詩や漢文が自由に書けなければ定着しないので、看話禅のほうが残った。
そこで、看話禅イコール公案禅という理解が一般化している。
道元は大慧宗杲の看話禅に反対していた。
公案禅に反対していたわけではない。
唐代と宋代で問答に対する姿勢が変わったとこについて、自分の発見かと思っていたら、すでに看破していた人がいた。
夢窓国師「夢中問答」を見ると、
達磨が来た時に、
目新しいものは持ってこなかった。
各人の中にあるものを指し示すために来ただけだ。
と書いてあるのを再発見した。
また、公案成立の経緯についても、
古の(唐代の)老師は自分の言葉を公案にして探求せよなどとは言われなかった。
しかし今の人は、気根が衰えたので、話を聞くと、当て推量をして、理屈でわかったような気になって、やめてしまう。
頭の悪い人は、考えてもわからないから、挫折してやめてしまう。
だから圜悟克勤(『碧巌録』の編者)や大慧宗杲(書簡集である『大慧書』が有名)は公案を作ったのだ。
公案というのは
「往生浄土のためにもあらず 成仏得道の求めにもあらず 世間の奇特にもあらず 法門の義理にもあらず すべて情識のはからざる処なり(理屈、分別、意識のまったく及ばないところだ) 故に公案と名づく」
と書いている。
そして情識の通用しない鉄饅頭(鉄酸餡)を噛み続けていたら、いつかバリッと噛み破れる時が来て、悟りが開かれるというものだというように説いている。
自分が研究してやっとわかったと思ったことは、古の老師たちはすでにご存じのことだった。
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