(続き)
京都帝国大学時代の虐めの話。
少しだけ触れていたので書いておくと、広島高等師範学校からおまえはズルして入ったんだろうというようなことを三高から来た連中も教師も言うので、教科書のページを言ったら、そこに何が書いてあるか言うからといって、試験をした。
そして、ちゃんと言えたので虐めが緩和された。
林一青年は京都帝国大学を卒業すると、松本中学の英語教師になった。
芸者の置屋の上に下宿していたら芸者と親しくなって、駆け落ちして東京に出てくる。
置屋の二階に下宿している先生なので、生徒がよく様子を見にきた。
すると毎晩電気がついているので、よく勉強していると見直してくれた。
駆け落ちする時も、生徒が駅まで見送りに来てくれた。
東京に出て来たが、つてはない。
玉川大學をつくった小原国芳という人が広島の高等師範学校の出身であったので、そこに世話になった。
芸者はすぐに逃げてしまったが林一は残り、お金は稼がなければならないので、小原のゴーストライターになっていた。
小原国芳全集のほとんどは、林一が書いたそうだ。
そのあと、国費でドイツへ留学することになり、船で行ってマルセイユに上陸、陸路をライプチッヒに向かう。
途中の話。
舟で行くので退屈なので、勘を鍛えようと思った。
そこで、持って行った「芭蕉七部集」を、作者をわからないようにして、いいと思う句に印をつけて行ったら、ほとんどが芭蕉の句だった。
また、その頃はルーブルが無料だった。
そこで、入って、いいと思う作品を、作者を見ずにしるしをつけて行ったら、ほとんどが有名な画家だった。
また、クラッシックのジュークボックスがパリにはあり、お金を入れてでたらめな番号を押し、いいと思ったものの作曲者を見てみると、ベートーヴェンなど、有名な人だった。
「きみたちも、感覚を磨かなければいかんぞ」と言っていた。
※人は往々にして肩書や世評で対象物を評価するが、本当の価値はそんなものでは決まらない。自分の目で見、耳で聞いて判断できるようになれと言う事。
わたしも当然だと思うが、世にそれができない人のなんと多いことか。
ライプチッヒでは大学で哲学を学んだわけだが、当時の教授の給料は、聴講する生徒の数で決まった。
ヘーゲルは人気があって学生が教室に溢れていたが、ショーペンハウエルは人気が無くて、給料が出ないと嘆いていたという話を聞いた。
注目され出していた現象学のフッサールの名前を出したが、「誰だそれ」という反応だったとか。
ドイツは寒いし芋とソーセージしかないから嫌だと思って、後にパリに出た。
そして、ここで骨をうずめるつもりでパリ大学に行く。
そこで書いた博士論文は、論語のなかの恕(ジョ。ゆるす)ということを扱ったものだった。
西洋では赦(ゆる)すという事が出来ないが、東洋にはそういう思想がある。
図書館で本を見ていると、中学生くらいの少年がラテン語の辞書を使っていた。
それで、哲学を辞めた。
西洋人は、出だしから違うんだと思い知らされたからだ。
ずっとパリにいるつもりだったが、第二次大戦がはじまって、強制帰国させられた。
東京→長野と移動して、終戦後、浜松に来た。
戦時中は特高警察が床下にいつもいて、ごそごそ音がしていた。
危険人物と思われていたらしい。
戦後は、進駐軍の通訳を、不本意ながらさせられて、そのおかげで食料などをもらってこられた。
そして、晩年は温かい所で暮らそうと思い、浜松に出て来たのだという。
ここで啓文外語塾という英語教室を開く。
松岡さんは大学受験も順調ではなく、浪人生活をしていた。
そのころ予備校や塾に通う金など無いから宅浪していたのだが、友人から、「面白い先生がいるから、逢いに行ったら」と誘われてついて行った。
小柄な若井先生は、一瞥して「まあ、来てみなさい」と言ったという。
「どうせ払えないだろうから、授業料はいらん」
と言われて、10か月、通うことになった。
※彼は言わなかったが、授業料免除だと、他の塾生の手前もあるから、真面目に勉強せざるを得なかったんじゃないかと思う。
若井先生の教え方は、まず「質問はするな」だった。
質問する前に、自分で調べろと言うのだ。
そして、高校2年のリーダーの教科書の下の注を全て塗りつぶさせた。
同じ文章を何人かに当てて訳させるのだが、同じ訳はするなと言って、違う言葉で訳させた。
話は大変に具体的だったという。
大きな辞書を使えと言って、「研究社英和大辞典」を中学一年生から買わせた。
これは例えば、中国文学をやると言って入ってきた一年生に、諸橋轍次の「大漢和辞典」を買えと言うようなもの。
※使いこなせないままやめて行った子供たちも大勢いて、松岡さんは、放置された辞書をもらって使っていたそうだ。
私の思い出だが、松岡さんと知り合ったばかりの頃、大修館から出る辞書の校訂の仕事をしないかと誘われた。
私以外は中国関係の専門家で、わたしは日本関係のことを調べる係にされた。
そして、「みなさん、よくやってくれましたが、バイト料は些少なので、『大漢和辞典』を買いませんか?」と言われた。
社内割り引きで買えるから、多少持ち出しになるが本屋さんで買うより安いというのだ。
で、お願いした。
『大漢和辞典』を買ったら、使わなければもったいない。
おかげで、日本のことをやろうと思っていたのに中国にはまることになってしまった。
思えば若井先生のやり方を、こちらにも当てはめておられたのだ。
教室では担当があって、松岡さんは語源を調べる係りだった。
「The Oxford Dictionary of English Etymology」を使って、授業中に語源が問題になると当てられて答える。
宿題はないのだが、先生が「Japan Times」をとっていて、「この部分は重要だからみんな読め」と言われたり、「天声人語」を英訳させて、添削してもらったりした。
これが後で、大學の入試の問題として出て、役に立った。
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