第一回で期待したのだが、残念ながら全容がわかってくるとやや期待はずれな面が出て来た。
今回は、全体の構成を説明しているのだが、出だしは悟りを開いたばかりの釈尊が、この悟りを衆生に説き知らしめるべきかどうか迷うところから始まる。
衆生は説いても理解できないだろうから、盧舎那仏として、悟りの世界に入ってしまおうとしたのだ。
結局説得されて(?)教えを説くことにするのだが、自分では発言せず、周辺の菩薩などが語ることになる。
出だしからして、衆生の救済を解く経典なのに「何だこれは!?」なのだが、これは方便で、理解しにくいかもしれないが、しっかり聞いて理解しなさいよと言うことが言いたくて、こういう書き出しになったんだろうと解すべきなのだろう。
さて、衆生は「罪業深重」で、長く救済を求めてきたので、救済しようと思うわけだが、その道程は「信解行証」だという。
まぁ、信仰・理解・修行・実践という事かと思う。
信を道元 功徳の母と為す
信は是れ宝蔵 第一の法なり
清浄の手と為りて 衆行を受く
という言葉を引いて解説していたが、信仰を重視しすぎるのはいかがなものか。
イスラムのように信仰に拘泥しては自在な思考は得られない。
禅宗は、一度信仰を離れる境地を求めるというが、それでいいと思う。
哲学的には全肯定になってしまう本覚論を、修行を「してもしなくてもいいもの」として否定していると切り捨てるが、滝行や回峰のような苦行とは安在の価値を知るためにするものだろう。
病んで健康な体の価値を知るようなものだ。
でなければ、ただの自己満足だ。
ボランティアとして災害救助に行ったり、弱者に寄り添って話を聞いてやることの方が、まだ修行になっているように思う。
空海は「秘密曼荼羅十住心論」の第九住心である極無自性心で華厳宗を取り上げているが、ここでもまだ「成仏を得ることはない」と断じている。
その程度のものである予感はしながら、やはり「知るべし。依るべからず」で行くべきなのだろう。
どうでもいいような話だが、経典を引用する時、慣用的な発音を使うのに、私は反対だ。
プロの僧侶相手ならいいのかもしれないが、在家を相手にするのだから漢音で読むべきだと思う。
この一事からして、衆生に教えを説く気があるのか疑わしいとさえ思えてしまう。
道元禅師はやっても、維摩居士ならやらんだろう。
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