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2015年06月12日11:44

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こころの時代 −“聖典”として読む万葉集

奈良大学教授 上野誠

万葉集を“聖典”とは、何を勘違いしているのかと思ったら、これが、神道の真髄を語っていた。

君が行く 海辺の宿に 霧立たば 我が立ち嘆く 息と知りませ  万葉集 巻15-3580

「続日本紀」に遣新羅使がいつどんなルートで行ったかは書いてあるが、人の心は書き込んでいない。
万葉集には、この歌のように、もっと人間的な嘆きが書き込んである。


飛鳥の川原寺のあたりで、小さなお社が壊れた。
氏子がお金を出し合って再建しようとする間に、そこに木が生えてきた。
社を再建するお金は集まったが、再建するためにはその木を切らなければならない。
それでいいのかというと、よくないのだ。
仰々しい社が無ければ祈れないのが神道ではないのだ。

泣沢(なきさわ)の 神社(もり)に 神酒(みわ)すゑ 祈れども 我大君は 高日(たかひ)知らしぬ 万葉集 巻2-202

泣沢は地名だが、ここに滾々と水が湧く泉があった。
神社と書いてあるが、社殿があったのではなく森の泉が神なのだ。
そこに酒の入った甕を置いて祈ったけれど、大君は願いを叶えてくれなかった。

この泉、祈ったこの人にとっては、それが「神」なのだ。
人に言われて祈るのではなく、自分が見つけ出して神として祈る。
そこにすごさがあるという。

多神教というのは、たくさん神がいる事ではない。
とめどなく神が生まれる事だ。

↑これは、密教にも通じる考え方で、だからこそ神仏習合になって行ったのかもしれないということか。

歌というものは、論理を超えた感覚を伝えるためのツールだ。

古(いにしえ)の 事は知らねど 我見ても 久しくなりぬ 天の香具山 万葉集 巻7-1096

昔のこと知っているわけではないが、自分でも、天の香具山が懐かしく大切な場所で。あることは分かる。
この歌のように、知識で見てありがたがるのではなく、そうしたものを取り去ってなお尊いものを見たり感じたりすること。
例えば、寺に行って仏像を見る時に、国宝だから尊いのか?重要文化財だから尊いのか?何の指定も受けていない像は尊くないのか?
こうした肩書きが、見る人の目を曇らせてしまう事があるのではないか?

「見る目が無ければ、香具山といえど単なる小山だ。・・その場所に行って感ずるものを大切にしなければ。権威に導かれて行っているだけではダメじゃないかなと思うんです」

何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる  伝西行作

何人もの学者がこの歌を批判して、「崇拝の対象も知らずに感動するなどということはありえない」という。
自分はそうは思わない。
実際にその場所に行って、感動して涙が流れるなどというのは素晴らしい経験ではないか。
自分自身の感覚によって、その場所が自分にとって大切な場所だと思えるというのは、幸せなことではないか。

古典学者が「いま」を意識しないというのは間違いだ。
最終的に解釈するのは自分だ。
最終的に感ずるのは自分だ。
そのために自分はどういうふうにしたらいいのか。
ということを常に思って自分を磨いていかなければダメだ。

生活実感がないところに文学の感動もない。



最後は文学としての万葉集の話になったが、ここに出てくる神や信仰の話は、自分の神道感に合う。
こんなことを考えている人が居たんだと思えただけでも、見てよかった番組だった。

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