「白鳥庫吉全集」第10巻の月報に孫の芳郎氏が思い出を書いている。
庫吉が中学に通っていた明治12年ころ、千葉中学では27歳の那珂通世が校長で、22歳の三宅米吉が英語を教えていた。その授業で「School」を「スチュール」と発音していた。
それを参観していた那珂通世が、それは「スチョール」と発音するのではないかと言われたという。
まだランプで勉強していた時代で、ろくな辞書もなかったというのだが、明治初年の辞書では、カタカナで発音が書いてあったりするから、こうした間違いが起きたのかなぁなどと想像してしまった。
オランダ通詞は職業秘密として何も教えてくれないと言うような、「蘭学事始」の時代よりはましだったと思うが、苦労したには違いないだろう。
ただ、未知の事を知る喜びもあったはずだ。
英語と言うと思いだすのは、乙骨太郎乙だ。
昌平黌で教鞭をとっていた乙骨耐軒は、江戸中のドブの深さを知っているというほど、飲んべでだらしのない人だったようだが(江戸中の長屋のどぶ板を踏み落としているということ)、この人の子供である乙骨太郎乙は英語を学んで翻訳官になっている。
ジョン万次郎などに習ったのかと思うが、やはりこの時代の人は大変だったろうと思う。
余談だが、国歌「君が代」を選定したのは、この乙骨太郎乙だったという。
本題からそれるので、詳しくは書かないが。
違う意味で余談になってしまうが、乙骨耐軒については、「瀛奎律髄」(元・方回)の版本調査をしていた時に、「讀瀛奎律髄刊誤條記」という、清を代表する学者である紀�瓦�瀛奎律髄にした評論を、更に論評した本を書いた人として知った。
伝記も書かれているので興味がある人は調べてみるといいが、「讀瀛奎律髄刊誤條記」自体は写本でしか伝わらないので、東京にいないと披見しにくいということはあるだろう。
もっと余談だが、日本人が書いた本であるのに静嘉堂文庫の目録では漢籍に入っている。
乙骨耐軒の名は寛で、乙骨寛と書いてあるから中国人だと思われたのかもしれない。
あそこの漢籍目録は層々たるメンバーが作っているのだが、こんなこともあるのだ。
この乙骨耐軒の次男:絅二(けいじ)は、上田家の養子に行き、長男に敏と名付けた。
この上田敏は静岡尋常中学から私立東京英語学校、第一高等学校を経て、1897年(明治30年)東京帝国大学英文科に入学し、教えていた小泉八雲から「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生」と評された人で、カール・ブッセやヴェルレーヌの詩の翻訳は、よく知られている。
「血」ということはないのであろうが、語学に長けた人が出た家系なのだ。
比べるのもおこがましいが、わが家系は語学まるで駄目。
わたしも英語で落第しそうになったことがある。
しかし、血じゃないんだよな。
姪が津田塾大学に行っているし、ウチの息子も英語は苦手じゃないようだ。
アメリカに留学したりイギリスで夏期講習を受けたりしている。
で、わたしも最近、英語が勉強したくなってきている。
朝鮮通信使が江戸に来た時、互いの言語がわからないので、林羅山は漢文を使った筆談をしたというが、江戸時代の漢文と同じで、英語は便利な言葉なんです。
昔、中国旅行をした時、一生懸命勉強していた中国語より英語の案内板の方が意味が分かってがっかりしたことがある。
ブロークンでもカタカナ英語でも、知っていると便利なのだ。
ピジョンイングリッシュと言ったか、現地語が入ってきたり現地の訛りが使われたりしている英語でも、例えば国字が使われていたり貴族の漢文日記のように和製漢文であったりしても、何となく通じたりするのだ。
ボディラングウェッジでも、相手が理解してくれようとすれば何となく通じたりするのと同じだろう。
最近話題になっているイスラム学者が語学の勉強について、「忘れる以上に覚えればいい」と書いていた。
そうなのだろう。
とにかく、先人たちよりよっぽどましな辞書や環境があるのだから、よりできるようになるはずなのだ。
I believe so it。
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