「昭和史の謎を追う」(秦郁彦)を読んでます。
1982年度のドキュメンタリー大賞をもらったNHK特集「わたしは日本のスパイだった」で紹介された「東」情報の話。
これに関してはちょっと思い出がある。
児童劇団の後輩だった(年は同じ)矢倉さんのことだ。
このドキュメンタリーが放送された頃、劇団の同窓会をやろうという話があり、矢倉さんに会ったことがある。
出版社の仕事をしているというので詳しく聞いてみると、小学館の映像関係の仕事だった。
その頃は私も小学館の辞書の仕事をしていたので話が弾んでいたら、このドキュメントの話が出たのだ。
ご家族は元気かと言うような流れの中でだったろうか。
「父はもう寝たきりなんだけど、頭はしっかりしているのよ。あまり詳しく話さないけれど、戦時中はスペイン大使館に勤務していたらしいわ」
というのだ。
まさのこの「東」情報にかかわる可能性があった外交官ではないか。
スパイだったべラスコも知っているのだろうか?
「それは歴史の記録になるから、いろいろ聞いておくといいですよ」
と言ったのだが、その後逢う機会が無くて、どうなったのかわからない。
あまり積極的には受け止めていなかったし、「少しボケてきた」などとも言っていたから、聞きだせなかったのかもしれない。
思えば、こうして葬られた歴史というものは、けっこうあるのだろう。
養父は、前にも書いたように兵隊検査は丙種で不合格だったのだが、ノモンハン事件が起こった時に「弾除け」用に乙種編入になって召集された。
それが、停戦になってしまったものだから、山東省付近の警備をさせられていた。
兵役が満期になり、独身だったし若いから、現地除隊して中国で働こうかと思っていたそうだが、隊長に話すと、
「仕事はあるのか?」
と言われた。
これから探すというと、
「おまえなぁ、仕事が決まっているならまだしも、大した当てもないのに現地除隊してどうするんだ。一度おふくろに顔を見せて、それから決めてもいいだろう」
と説得されて、日本に帰ってきた。
そして考えたのだが、このままでは徴用で南方に持って行かれそうだ。兵隊で死ぬなら戦死だが、徴用で死んでも殉職にしかならない、それなら内地で働こう。
そう思って、たまたま募集があった警察官の試験を受けたら、体が弱くて平時なら採用になんかなるわけがないのに、健康な男はみんな軍隊に行っているから採用してもらえた。
それで、三田警察署で巡査をしていた。
戦争中の話を聞いても「戦闘には参加しなかった」と言っていた。
そうだったのだろうか?
養父は「奉公袋」を持ち帰れたので、中に入っている軍隊手帳も残っていた。
父の死後、それを見たら、どんな戦闘に参加したか、どんな褒章を受けたのかも書いてあった。
戦闘に参加してないということは、なかったのだ。
実父は、養父が除隊になった後に、同じ山東省の駐屯軍として中国に行っていた。
こちらも、私には中国で何があったか、聞いてもあまり話さなかった。
ただ、弟たちは一緒に暮らしていたので、多少の話は聞けたようだ。
中国軍との戦闘もしたようだし、処刑などにも立ち会っていたようだ。
ただ、子としては、やはり書くのをはばかることもある。
言わなくてもわかるだろうという世界でもある。
だから、ネット右翼には心底バカじゃないかと思うのだが、それもまた、言わずもがなだろう。
振り返って、自分にも客観的に語れない歴史はあるのかと言えば。ある。
いずれ書くかもしれないが、今は語らない。
語らないから無かったのではない。
語らないだけなのだ。
矢倉さんの父上も、語るべきことは語ったと思っておられたのかもしれない。
語られなかったから無かったのでもない。
語らなかっただけなのだ。
それが歴史の資料であって、それをつなぎ合わせて「歴史」が作られる。
そんなものだと知った上で「正義」だの「真実」だのと言うのは常識なのに、その常識さえわからない人がいる。
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