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2021年05月16日07:19

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風林火山伝 第41話 関ヶ原の伝説

浅井長政は織田信長からの書状を受け取った。信長からの書状には、過去の金ケ崎の戦い、姉川の戦いなど水に流し、武田信玄が近江に入ったとき、織田軍と挟み撃ちにし、信玄を撃ち取りたい。成功のあかつきには近江一国の領地に加増する旨の内容が書かれていた。一方、信玄からは信玄とともに上洛したあかつきには、北近江の領地に加え、美濃一国を与えると書かれていた。

長政はたとえ信長と手を結び、武田を倒しても、信長は勢いを盛り返した際には、また、浅井、朝倉に反旗をひるがえすだろうと考えていた。しかし、信玄とはまだ直接、会っておらず、信玄の今後の浅井に対する待遇がどうなるか強い感心を示していた。
そして、長政は過去のいきさつもあり、信長自身が小谷城まできて、過去の過ちを詫びるのであれば考えると返事したのだった。

元亀4年(1573年)3月3日、武田信玄は大垣城を出て、軍勢は近江国と美濃国の国境の手前、関ヶ原まで進めていた。関ヶ原は歴史上これより27年後の慶長5年( 1600年)9月15日に東軍 徳川家康と西軍 石田三成との間で天下分け目の合戦が起こることになる。当然ながら信玄はまさかこの地で大いくさが起こるとは夢にも思わなかった。

信玄は関ヶ原の地形を見てなぜか過去に起こった壬神の乱を思いだしていた。伝えによると天海人皇子が大友皇子と決戦を行い、天海人皇子が勝利をおさめた地あり、兵を励ますために桃を配ったという伝えがあったのである。信玄も過去の言い伝えに習い軍勢に桃を配ったのであった。なぜかこの桃は甲斐で取れた桃であり、武田軍の軍勢はしばらく甲斐を離れて、故郷の甲斐のことを思い出した。そして、甲斐を出発するときに信玄から聞いた夢の京の都の風景を思い描いていたのであった。

しばらく軍勢を進めると北西のほうから正体不明の軍勢が武田軍めがけて進んでくるのであった。

つつく


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