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2008年06月30日19:49

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オーマンディのブルックナー

<この文章は2001年5月から7月にかけて同人誌に投稿した原稿からオーマンディについて書いた部分を抜き出して再録したものです。CDの発売時期については7年前の文章であることをお含みいただいた上でごらんください>

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 歴史的な録音のセット物も盛んに復刻されていますが、個人的には昔話や文献でしか存在を知り得なかったミネアポリス時代の録音を多数含んだオーマンディの10枚組みセット2800円というのがインパクトがありました。同時に読んだノーマン・レブレヒトの「だれがクラシックをだめにしたか」によると、これらのSP録音はミネアポリスの契約がレコード録音というものを想定していなかったことに目をつけたマネージャーによって指揮者にも楽団にもまったくギャラを払わない形でなされたということで、なぜSP初期にこの顔ぶれでマーラーの「復活」やブルックナーの「7番」、シェーンベルクの「浄夜」といった録音が集中的になされたかという長年の疑問が氷解しました。ただで録音できるのなら大曲も前衛作も経済的リスクを恐れずにレコーディングできるわけです。このCDセットはフィラデルフィアOとのものも含めて著作権の年数を経過したものばかり集められているのが安さの一因ですが、ミネアポリスOとの遺産の復刻にはまことにふさわしいというのも皮肉なことです。もちろんこの録音は演奏家たちの注目度を上げるのに役立ったには違いありませんが、悪徳マネージャーに騙されて渡米したオーマンディの苦闘時代の記録でもあると思うせいか、張りのある演奏につい思い入れして聴いてしまいます。

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 前回オーマンディのSP録音について書きましたが、今回は最近まとめて再発されたRCA時代の録音からブルックナーの7番について書かせていただきます。このレコードは国内盤も1度は出たそうですが、僕はドイツプレスのLPで聴いたのが出会いでした。以来20年もの年月を経て再会したわけです。
 オーマンディのブルックナーはミネアポリスでの7番が最初のものですが、ステレオ時代にフィラデルフィアと4番、5番の2曲がレコーディングされ、今回の7番が最後のレコードです。
 フィラデルフィアとの新盤を旧録音と比べると、第2楽章の扱いが大きく変わっているのが注目されます。テンポが速められたこともありますが、僕にとってはベイヌムやレーグナーと同じく第2主題を基本テンポより速めてロンド的な構造を浮き彫りにするようになった点が注目です。ミネアポリス時代は遅めの一貫したテンポによる常識的な解釈を採っていたオーマンディがいつからこうした解釈に変わったのか。もともとあまり解釈を(少なくともレコーディングにおいては)大きく変えることがない指揮者ですから気になるところです。
 ここからはファンならではの想像というか、むしろ妄想の領域になりますが、オーマンディとベイヌムが歓談している1枚の写真があります。ベイヌムのLPボックスの解説書に載っているもので、50年代中頃にロサンゼルスOの指揮者を勤めていた時期のものではないかといわれているものです。もちろんこれは2人が顔見知りであったことを示しているだけで、ブルックナーの解釈について話し合ったとかお互いの演奏を聴きあったとかいう証拠はないわけです。
 にもかかわらず、そんなことを考えてみたくなるのは外面的な解釈に共通する点が多いせいです。7番については上に書いたとおりですが、5番も基本テンポの設定や部分の解釈に似ているところが多々あり、史上稀にみるブルックナー指揮者ベイヌムとの交歓などとついつい想像したくなってしまいます。
 とはいえオーマンディのブルックナーにはベイヌムのものとは決定的に違うところもあります。オーマンディならではの人の声を想わせる弦のイントネーションはベイヌムには見られないもので、最近オルガンやエレクトーンによるブルックナー演奏がいくつも出てきましたが、もしア・カペラによるブルックナーというものがあったとしたら、多分それはオーマンディのブルックナーから受ける印象をさらに強調したものになると思います。ブルックナーの旋律への感覚は必ずしも人の声にマッチしたものではないと僕は思っていますので違和感を感じないといえば嘘になるのですが、少なくともこれはオーマンディの音楽がいつも持っていたあの親しみやすさの秘密の1つに違いないと思うのです。

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 オーマンディのブルックナーについてもう1つ感じるのは選曲がいかにもオーマンディらしいというか、深刻な面を持つ8番や9番がなく、ブルックナーの霊感が屈折せずに出ていることでは双璧の5番と7番が選ばれているところがさすがだと感じます。何でも屋のように思われがちなオーマンディですが、シベリウスの交響曲を積極的に録音しながら3番と6番については「自分にはわからないから」とレコード会社がいくら頼んでも手をつけなかったという1面もあり、さすがにひとかどの人物ともなれば自分のことはわかっているものだなあと思わせるエピソードです。3番や6番がわからないということはシベリウスの音楽のひそやかさへの共感を決定的に欠くということであり、オーマンディが残したシベリウス録音は確かにそのとおりの演奏になっていますからシベリウスファンにとってはファーストチョイスたりえない演奏なのは事実なのですが、にもかかわらずそれらの録音は演奏の持つ独自の魅力と説得力を今に伝えてくれています。それは誠実さに由来する好感度と信念からくる背筋の伸びた、周りの人に一目置かせるオーラのようなものです。
 フィラデルフィアでの40年以上におよぶ活動の基礎にあったものがなんであったか、演奏ににじみ出ているのが偉いものですが、結局オーマンディの音楽を聴くということはオーマンディの人柄を味わうことにどこかでつながってくるようです。もちろんブルックナーの場合も同じことがいえるわけで、音に対する多少の違和感を越えたところで愚直さと裏腹の純粋さの魅力を感じさせてくれる演奏になっています。結局オーマンディも20世紀前半の巨匠の世代、演奏という行為が今以上に演奏家の人間性の率直な表出であった世代の1人であったことを改めて実感させられます。

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