mixiユーザー(id:7656020)

2008年04月12日21:16

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最近聴いたCDから

 少し前から思い立ってハイドンの交響曲を聴き返しています。アダム・フィッシャーが英ニンバスに入れた交響曲全集が激安で有名なブリリアントレーベルからライセンス販売されたおかげで1万円で入手できたものや、ナクソスでベートーヴェンの交響曲を録音もしているベーラ・ドラホシュによる選集が手元にありますが、ベートーヴェンと比較できるという点でドラホシュのものがとても面白いです。
 結果的にモーツァルトの死後も生きていたハイドンでしたが、彼は音楽を自己表現の手段にすることがとうとうなかった人でした。それぞれに趣向をこらしたたくさんの交響曲は、けれど一定の仕上がりの枠に収まった職人芸の産物としての音楽であることも確かであり、どこか現代の商業作曲家の作風に通じるルーチンワークとしての性格も明らかに備えていることを感じさせます。ドラホシュのような穏健な演奏でハイドンとベートーヴェンを聴き比べると、古典派と呼ばれるハイドンの時代の交響曲の在り方がどのようなものだったか、そして、そういう在り方に満足できずに自我の表現手段としての音楽に交響曲を変貌させたベートーヴェンのある種の傲頑さが音楽の姿形そのものから浮かび上がってくるようにも感じられます。
 巨匠時代から復古派に至るまでの演奏家たちの中にはハイドンをベートーヴェンへの予告として捉えようとする意図ゆえにやたらとものものしい、あるいは攻撃的な解釈で演奏するケースも見られますが、それではもはやハイドンじゃなくなってしまうと思います。国内盤ではドラティの記念碑的な全集が出てはいますが値段が高く、かつて出ていたヘルビッヒのザロモンセットも廃盤で、職人芸の音楽にふさわしい職人芸の演奏でハイドンに接する機会はなかなか得られなくなっています。けれども、ふさわしい演奏を得たハイドンの交響曲には聴く者の精神のバランスさえも整えずにおかないような黄金のバランスが今も保たれています。まるで耳で聴くサプリメントであるかのような音楽の在り方。貴族の時代の黄昏を生きた作曲家の作品が、どこか現代の音楽にも求められる要素を持っているように感じられるのも人の世の妙ということになるのかもしれません。

 昨年のシベリウス没後50年企画の1つとしてEXTONレーベルから出たアシュケナージ/ロイヤル・ストックホルムSOによる交響曲全集の購入者特典CDが届きました。高名なピアニストでもあるアシュケナージが弾いたシベリウスの5つの小品「樹の組曲」です。2〜3分の短い曲を集めたものですが、歪みない演奏と優秀録音がひそやかな幻影をかいま見せるCDでした。

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