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2024年05月25日21:34

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完成できなかったのはなぜ?(MUSE2024年5月号)

 前回は2つの完成した楽章と第3楽章冒頭だけが現存するため「未完成」という本来あまり名誉とはいい難い通り名のままで、単にシューベルトにとってのみならず数ある古今の交響曲のうち最も有名な曲の1つにまでなってしまった曲に対し、録音されたものに限ってもあれだけ補筆完成の試みがされていることを見てきたのですが、なんでもアメリカではAIに補筆させようという試みもなされたものの、出来上がった曲はシューベルトどころかハリウッドの映画音楽みたいにしか聞こえないと散々な酷評を浴びたということで思わず笑ってしまいました(ウィキペディアに出ていた話です) 僕の勝手な憶測ですが目標がオーケストラ曲の補筆である以上ロックやポップスなど異質な編成の楽曲を記憶させることは避けられたでしょうから、ジャンル的にはクラシックから派生したといってもいい映画音楽のデータも欲張って入力したところ、プログラム側がシューベルトの遺した断片と規模が近い映画音楽のデータを優先的に参照したのでは? などと想像して楽しませてもらった次第です。
 そんな与太話も楽しみつつNMLに登録されている補筆完成版を単に作曲時期のみならず曲の規模も近い「ザ・グレート」とも比べながら聴いていると、この2曲は規模は近くても性格の点についてはむしろ正反対というべきもので、あるいはそれが片方が完成に至りもう片方が未完成に終わった理由だったのかもという素人考えを呼び起こしたものですから、学者先生のような裏付けなど何一つない妄言ですが原稿ネタと割り切り書いておきたいと思います。

 ベートーヴェンを尊敬するあまり自分も今後はあんな曲を作曲しようとシューベルトが決意したという話は、特に「ザ・グレート」のライナーノートには昔からしばしば書かれていたものでしたが、この曲と「未完成」の作曲時期が近い以上、彼にとっての「ベートーヴェンのような交響曲」という目標は「未完成」にも設定されていて、少なくともこの2曲がそれまでの彼の交響曲の倍以上に拡大されているのは目標が同じだったからではないかという気がするのです。だからシューベルトは第3楽章の作曲にも実際に着手した。けれど「ザ・グレート」が完成できた一方で、「未完成」の方は書き始めたばかりのところで止まってしまい、断章のままで終わってしまった。ということは「未完成」が完成できなかった理由の少なくともヒントめいたものを求めるなら、「ザ・グレート」はなぜ完成できたのかを考えなければならないのではないでしょうか。
 そういう観点で「ザ・グレート」を聞き直すと、真っ先に気がつくのはこの曲は彼が書いたそれまでの交響曲と同様、楽章間のコントラストはむしろ控えめに設定されていて、規模だけは拡大されているものの、ベートーヴェンといえば決まり文句のようにいわれる「暗から明」というほどの大きな転換点は曲の進行中に置かれていないと感じます。彼のそれまでの交響曲の中には「悲劇的」という後のマーラーみたいな副題を持つ曲もありますが、これも全体としてそういう気分に寄っているという感じで一気にどん底に暗転するといった大きな落差はありません。それに対し「未完成」における書き出しのスケルツォは、第2楽章の後ろで転換点になりうる落差の大きさが意識されていたからこそあんなものになったとしか現物を耳にすると思えないのです。
 ただそのことがもしかすると、スケルツォを書きかけの段階で放置するしかなくなった原因にもなったのではないだろうかとの疑念を、直前に置かれた第2楽章の展開を聴くと僕は覚えずにはいられないのです。この楽章は重苦しく下降してゆく音の動きが支配的な第1楽章に比べ、暗から明への推移を下準備しようとの狙いゆえかむしろ上昇に転じてはいるのですが、それがなにやら地に足がついていないような力感皆無のものであるため、その後のスケルツォにどうもしっくり結びつかないのです。この楽章をスケルツォに向けた転換点を準備するという意図だとすれば妥当であるはずの処理にもかかわらず。
 ここからは全く僕の想像というか感じ方でしかない話になるのですが、この第2楽章の奇妙な浮遊感めいた感触は「冬の旅」の終曲に似ているというかそっくりというか、ある種の諦念めいたものを感じさせずにいないところがあって、それが作曲家自身に自分がなにを望んでいたのかを気づかせてしまったのではないだろうかと思わずにいられないのです。ベートーヴェンなら理念を貫徹させることで曲を構築できたはずで、シューベルトもそれに倣えばこそ第2楽章をそれを準備するものとしてああいうふうに書いたのでしょうが、その狙いが自分の思いとどこかずれているように感じてしまい、スケルツォを続けられなくなったのではないだろうかと。彼はベートーヴェンのような「こうあるべき」というものをどこまでも押し進める書き方を力業めいて感じ、その違和感を手がかりに自分の望みに気づき、それに従うことを優先したのではないか。だからこの曲は彼以外の人々にもある種の納得というか説得力というか、充足感を覚えさせるのだろうという気がするのです。

 ただ未完成交響曲の補筆完成版による音源は近年のものが多いので、演奏自体が総じてテンポの速いものが多く、昔の演奏ほど冒頭楽章を暗く感じないものも増えてきました。この曲もまた新たな視点による洗い直しのさなかにあるのも確かなのでしょう。



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