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2006年11月24日01:05

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オルフェウス室内管弦楽団について

 オルフェウス室内Oのディスクをここしばらく聴いています。指揮者にリードされ手足となって動くのではなく楽団のメンバーの総意をなにより重視するというこの楽団のあり方は民主主義という概念がなかったクラシックの時代とは似て非なるものだろうと思うのですが、ともすれば指揮者がピアノを弾くような単純化されたイメージで我々が捉えがちなオーケストラ音楽について考えさせてくれるところがあります。
 バロックから現代まで幅広いレパートリーを録音していますがモーツァルトを彼らで聴くと天才のひらめきに満ちた芸術としてではなくやたらと完成度の高い音楽として再現されるのが彼らの持ち味だと思います。カリスマ指揮者のドライブから生み出される演奏とはベクトルの異なるものですが、モーツァルトの時代の音楽はベートーヴェン以後の芸術至上主義とは異なる背景の下で生まれたものですから、川井憲次の音楽がそうであるように注文に応えて生み出された職人芸の産物として扱われたときにしっくりなじむところが確かにあります。ウィーン時代後期の作品になればある種の自我の表出を見て取ることもできますが、モーツァルトの場合はあまりそれを前面に押し立てると作品の実相を見誤るように思います。オルフェウス室内Oのモーツァルトは1人の統率者の自我を拠り所として音楽を造形することを拒否した彼らのスタンスが、音楽がまだ音楽以上のものであろうとしなかったモーツァルトの時代の音楽観をあぶり出しているように僕は思います。世界でトップクラスの技術を持つ奏者たちがニューヨークを拠点に集う彼らが奏でる一糸乱れぬアンサンブルがモーツァルトの時代にあったのかどうかは知りませんが、川井憲次の音楽と同じくあくまで快適で安定したテンポの流れに細部のニュアンスが浮沈する音楽は現代の刻印を感じると同時に、18世紀の時代にモーツァルトがいたのと似た場所に彼らがいることも感じさせます。
 これがロマン派の作品になると、同じ流儀で演奏しているにもかかわらず硬さを感じさせるのはなぜでしょう。チャイコフスキーの「弦楽セレナード」が手持ちのものでは特にそうで、安定したテンポとそろったアンサンブルが直角定規で曲線を無理やり描こうとしているようにさえ感じられるのが不思議です。見た目の編成こそ似ていても、モーツァルトとチャイコフスキーでは音楽の生理が異なるのかもしれません。またヴォーン=ウィリアムスの「タリスの主題による幻想曲」も、音楽としては完成度の高いものなのに表現は淡白にまとまるきらいがあります。これらの作品は個人的な感情や情緒の脈絡が音楽の展開を左右する傾向が強いだけに合議制を尊ぶこの団体のやり方とそぐわないところが出てくるのでしょうか。ロマン派音楽は個人的な内面や感情の表現をなにより重視する時代潮流の産物であり、同じ時代潮流がカリスマ大演奏家時代を生み出したものだったはずですから。
 クラシック音楽の世界では作品をあるいは歪みなく、あるいはその本質を大胆に表現しようと全ての演奏家がそれぞれの立場で勤めているわけですが、そうであるからこそかえってその立場や方法論の違いが浮かび上がる傾向があります。これは怪獣映画が絵空事にすぎない怪獣にリアルな背景を与えようと勤めるあまり一般映画よりも濃厚に時代の空気を取り込んでしまう場合があることとどこか似ているように僕には思えます。

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