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2022年11月23日17:04

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ベートーヴェンの交響曲における後半楽章(MUSE11月号)

 今回はブルックナーと同様、1つの型をベースに交響曲を書いたと見ることができそうなベートーヴェンについてです。
 ブルックナーの場合、習作とみていい00番や0番から1番、2番、4番、5番、6番の7曲全てで両端楽章がほぼ均衡を持つという型を持っており、この型を崩すことで7番や8番で新たな実験に挑んだと見ることもできるわけですが、ベートーヴェンの場合は1番、2番、4番、7番と1つの型を追求する歩みと同時進行で、いわば形成されてゆく型を踏み台にして要所要所で英雄と呼ばれる3番や5番、6番等で型を変形させたり反転させたりすることで強い特徴のある曲を派生させている歩みを見せているところに、慎重な性格の上に無理解にさらされることの多かったブルックナーとの違いも出ているように思えます。
 ブルックナーの型が両端楽章の規模を大きくすると同時に両者の性格に共通性を持たせた安定性重視のものであるのと同様に、ベートーヴェンの型には第3楽章が次第に規模を増してゆく(トリオが2回繰り返されるようになる)こととフィナーレと性格的に連続性があるという、こちらもどちらかというと安定性に繋がる特色が優勢な点が目を引きます。ただ彼の場合、そういう成果をあえて崩すことで個性をより強く打ち出した交響曲にも同時に取り組んでいるのが、いかにもこの人らしいと思うのです。
 そもそもベートーヴェンの場合、1番はいわば主にハイドンから受け継いだそこまでの交響曲の歩みを整理しつつ、自分はそこからどう進んでいくべきかとの起点としての意味合いが強いのではと感じるのですが、その流れを汲みつつ押し進めた2番とより飛躍した野心作3番という進め方自体、ブルックナーより意図的というか計画的というか、足場を固めつつも大胆なチャレンジも忘れない意志的な歩みが9曲を比較したときに最も感じるところです。ブルックナーが(ワーグナーへのオマージュを大量に盛り込んだ3番を例外として)晩年に至ってようやく同等の規模の両端楽章という型からの離脱を7番と8番で試みたのと対照的に、ベートーヴェンは常に型に還りつつも意欲作もほぼ交互に書き続けてきた。2人を比較するとそれを痛感するのです。
 その意味でベートーヴェンの英雄はブルックナーにおける7番のいわばモデルのようなものともいえるのかもしれません。後半2楽章をまとめてやっと前半の2つの楽章それぞれに演奏時間が並びうるという規模もさることながら英雄の後半2楽章は前後する2番や4番の後半楽章とは対照的に性格上の連続性から遠のいているのも注目点で、型をなす2番や4番ではテンポも曲想も共通点が多いのに、英雄ではスケルツォの速いテンポをフィナーレ冒頭の奏句が強引にブレーキをかけ、冒頭楽章に近いテンポへと減速させているのが新機軸になっています。この点は型に戻った4番に続く5番と6番でまたもテンポや性格が異なるものとして書かれているのに対し、7番では再び型に戻っているのがブルックナーとの違いです。
 しかも5番と6番では型からの外れ方が大いに異なるのもベートーヴェンの創意を痛感させずにおかない点です。当初は5番とされていたという田園交響曲は第3楽章とフィナーレの間に嵐を表す楽章を挟むことで大きな波乱を音楽にもたらしつつ、前後の楽章の音楽世界を全く異なるものとして一変させているわけですが、ここでの嵐の楽章の役割は英雄のフィナーレ冒頭の奏句が果たした役割をいっそう大きな規模で成し遂げたものとも見なせるのが特徴で、その意味では英雄の後半2楽章は5番や6番のそれらの雛形になったともいえるのではないでしょうか。
 けれどスケルツォの扱いについてはなんといっても、5番ほど思い切った書かれ方をした交響曲はありません。このスケルツォは単にベートーヴェンの9曲のみならず、マーラーが登場するまでに書かれた交響曲の中にも類例が見あたらないほど特異なもので、異常とも異形とも呼びたくなるほどのものです。それは型に従う交響曲でのスケルツォとはあらゆる点で正反対となることを目指して書かれたものだからです。
 型をなす1、2、4、7番における第3楽章はいずれも曲想やテンポの点でフィナーレと共通する要素を持っているのが最大の特徴ですが、5番におけるベートーヴェンはこのスケルツォをそれらとはあらゆる点で真逆のものとして書くことで、フィナーレとの落差を最大限にまで拡大させることであれほどのエネルギーを生み出すに至ったのです。通常スケルツォでは主部が速くてトリオは遅く、楽章自体は活気のあるリズムと快活で陽性の曲想を特徴とするわけで、ベートーヴェン自身も他の曲ではどれもそう書いています。にもかかわらず、5番のこのスケルツォだけは徹底的に逆をいく極めてネガティブな音楽になっているのです。
 薄闇の中からのっそり歩み出るような開始からしてスケルツォとは思えぬ出だしですが、これほど歩みが遅く、陰性の雰囲気を持つスケルツォはそれまでに類例がなかったはずのものですし、ベートーヴェンも9曲中これ1曲しか書いていません。そのうえトリオも通例と真逆の速さという、なにもかも逆の書き方で書かれた音楽なので、聴いているとこちらの平衡感覚が乱れるような錯覚に陥るほどです。なので古楽派の運動以来演奏される例が増えたように、このスケルツォも先立つ4番や続く6番や7番と同じくスケルツォ主部とトリオを繰り返して演奏すると心理的に圧迫されるというか聞き続けていることが耐え難くなるその頂点であの終楽章になだれ込む形になる。ベートーヴェンの構想は本来そういうものだったと僕には思えてならないのです(続く)

12月号 →
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