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2021年05月22日06:13

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風林火山伝 第42話  甲斐への想い

西のほうから向かってくる軍勢は浅井軍であった。軍勢は約100隊ぐらいで、その軍を率いる大将は海北綱親であった。綱親は赤尾清綱や雨森清貞と共に浅井三将と呼ばれていた。浅井長政は綱親を武田信玄の軍勢を小谷城への道案内をするため迎えの軍として差し向けたのだった。

信玄は旗印から浅井だと分かった。信玄はその軍勢の大将 綱親を呼びよせ、「こたびの迎えの軍、長政殿のお気を使いに感謝する。お主の名はなんと申す?」と綱親に言った。
「海北綱親と申します。拙者は浅井長政の軍奉行でございます。わが家は代々、浅井家に仕えております。主君 長政様が御屋形様との対面を楽しみにしてございます。こたびの岐阜城攻めの勝利お祝い申し上げます。小谷城へは、この拙者が案内いたします。小谷城へはこの関ケ原より約5里ほどの道のりでございます。」と綱親は信玄に返答した。

その後、信玄は綱親の案内のもと右に頂きに雪化粧をした伊吹山を見ながら軍勢を北西の方向に進めたのであった。信玄は伊吹山を見て、甲斐の富士山の光景を思い出したのであった。甲斐を出発した元亀2年(1572年)10月1日から早や5か月の月日がたっており、留守居役をしている真田幸隆、隣国の上杉の動きに気をかけており、いつ再び甲斐に戻ることができるのか考えていた。

なお、越後の上杉謙信は、信玄が石山本願寺の顕如を通じて起こった加賀・越中一向一揆軍と戦っている最中であり、一向宗との和睦の道を模索しつつも一進一退の状態であり、手薄となった信濃への侵攻には全く余裕がなかった。

一方、甲斐の留守居役の真田幸隆は信玄とともに出陣した嫡男 真田信綱より武田軍の動きは逐次知らされていた。信玄は野田城で病に臥せり、一時は危うい状態であったが、今では、すっかり元気になり、岐阜城を攻略し、京を目指し進軍している報を信綱より受け安堵していた。甲斐は北条氏康亡き後、北条氏政と間に結ばれた甲相同盟より北条よりの甲斐侵攻の恐れはなくなり平穏であったものの、しかし、幸隆は越後の上杉がいつ一向一揆と和睦を結び、再び信濃に攻め込んでくるか懸念するとともに、約1か月後の4月中旬ごろから始まる田植えのことを気にかけていた。百姓の大半がこたびの信玄の京への上洛戦に加わっており、もし、この上洛戦が長引くと、百姓の人手が不足し、田植えに影響を心配していたのであった。そして、そのようなことになった場合の対策として、すでに武田の領地となった駿河などの他国より百姓を一時的に田植えのために雇い入れることを模索していたのであった。

元亀4年(1573年)3月3日 夕刻、信玄率いる武田軍は長政の守る小谷城に到着したのであった。

                                    つづく

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