愉快な山の辺の道歩きも、あとちょっとで終わりだ。
長柄(ながえ)駅の近くにある大和(おおやまと)神社に参拝してこの日の歩きを終え、翌日はまたここからリスタートし、石上(いそのかみ)神宮まで歩くことにした。
結局、元伊勢を目指していたお姐さんには再会できなかった。
長柄駅。まほろば線の各駅は、無人駅が多いのかもしれない。天理や桜井を除けば、降車は2両編成のうち先頭車両のドアだけが開くしくみだった。
長柄近辺には、奈良盆地にかつて多かったという環濠集落が残っている。
環濠集落とは、周囲に灌漑用の水を溜めた堀のようなものを巡らした集落で、戦時には防御の役割も果たしたという。
のんびりと昔の道を歩いているが、ここは時によっては戦の軍勢が通ったり、男たちが狩りで山駆けをしたり、大王が宮殿から石上神宮へ向かったり、古墳築造の人夫たちがモッコを担いで往復したりした道だ。
海柘榴市での歌垣がもとで恋人を失った影姫が、涙にくれながら葬列を追って歩いたのもこの道に違いない。
コース上にあるという理由だけで立ち寄るつもりだった夜都伎(やとぎ)神社は、春日神社と関係が深いらしく、社殿もそっくりだ。
ここは、静かでとても美しい神社だった。
そこからしばらく歩いたところにある内山永久寺は、それまで名前も聞いたことがなかったけれど、平安時代後期創建の真言宗の寺で、東大寺や興福寺と並ぶ大寺院、江戸時代末期まで四十有余坊の伽藍があったそうだが、明治の廃仏毀釈で敷地ことごとく破壊され、屋根瓦に至るまで持ち去られ、かつて「大和の日光」と謳われた大寺院も、現在は本堂の池跡だけが残っている、ということらしい。
いやはや。
(before↓)
(after↓)
廃仏毀釈の破壊力、恐るべし。
当時の人たちは、何を考えていたのだろうな。
これだけの規模を誇る寺院が、腐敗していなかったはずがないとは思うけれど、それにしても、ね。
内山永久寺をすぎると、もうそこは石上(いそのかみ)神宮領だ。
さっきまでカラカラと晴れやかに歩いていたというのに、急にあたりが森閑として、何かようすが変わって来たなと思ったら、石灯籠にしめ縄、砂利道という神社セットが現れた。
境内には池があり、ここだけ強い湿気を感じる。
石灯籠の間に、おりゃ、トリがいるではありませんか。
しかも何羽も何羽も。
(どれがトリか、わかります?)
どうして鶏?と思ったら、天岩戸に隠れてしまったアマテラスを呼び戻そうと鳴いた常世長鳴鶏(とこよのながなきどり)にちなんで、数十年前に氏子が奉納したものと、その子孫らしい。
なぁんだ、さほど由緒があるというわけでもないのか。
けど、おもしろいからいいよね。
こいつらは、石上神宮の中でも、一番人気らしい。
コラ、じっとしてなさい。ブレるじゃないの。
石上神宮は、日本書紀のかなり早い段階で登場する古い神社だ。
ヤマト政権で軍事をつかさどった物部氏ゆかりの神社で、古代の武器庫であったという。
伝来した七支刀の写真を見たことのある方も多かろう。
実物はめったに外に出ないらしいが、去年、東京国立博物館の「出雲と大和」展に出展されていた。
この機会に紐解いた書物によると、ここ石上神宮が朝廷の武器庫になったのは、継体天皇の頃からだそうだ。
その前はどこにあったかというと・・・・、ナントというかやはりというか、ワカタケルの本拠地の初瀬谷、忍坂(おしさか)の辺りであったという。
さもありなん。
なにしろ、武器庫で寝泊まりしていてもおかしくない大王だったからな。
ワカタケルの死後は、彼のアルビノであったかもしれない息子が大王位を継ぎ、若くして亡くなってからはワカタケルが謀殺した従兄弟のイチノヘノオシハの忘れ形見であるオケとヲケの兄弟が王位を継ぎ、オケの息子のオハツセノワカサザキ(影姫に横恋慕して彼女の恋人を殺した王だ)がこれもまた後継者を残さずに死んだため、北陸から迎えられた壮年の新王ヲホドがヤマトの舵取りをした。
後の世につけられた諡号が「継体天皇」というのは、まさにそういういきさつ故だろう。
そして、彼の世になってここ石上神宮に武器庫が移り、ヤマトの中枢が初瀬を完全に離れて、新しい時代が始まったということなのかもしれない。
(まぁこのへんは、人によって意見はさまざまです。)
石上神宮が想像していたより小規模だったことには驚いたが、本殿に向かって右のある空間は、石垣で区切られた禁足地になっている。
無論人が入ることはできない(が無論有料で特別公開サービスもある)が、明治期の発掘調査で、ここから勾玉などの宝玉や鏡などが多数出土して、ここが神事を行う神聖な領域であったことが確認されている。
それにしても、そんな古の神域をよくぞ発掘したものだと思うが、きっと明治の権力移行の勢いで、エイヤという力を出せたのだろうな。よしよし。
さて、石上神宮参拝をもって、山の辺の道歩きはおしまいにしよう。
けれどあとで思ったが、山の辺の道自体は奈良まで続いているので、もうちょっと足を延ばすべきだったかもしれない。
石上神宮から最寄りの天理駅までは、宗教都市・天理の街のまんなかを30分ほどもつっきって歩くのだが、物珍しさこそあったものの、たいして楽しい道ではなかったので。
ただ、天理が誇る博物館である天理大学参考館の東洋美術のコレクションは凄いらしく、休館日と分っていたので予定に入れなかったが、ここはいつかぜひ訪れてみたいものだ。
この時点でお昼過ぎ、帰りの新幹線は京都発19時のこだまだったので、まだまだ時間はある。
奈良駅に戻っておしゃれにランチして、それからならまちでスイーツとお土産ショッピングという「ことりっぷ」な行為に手を染めてみようか、と近鉄電車に乗ってボンヤリ考えていると、「次は、西ノ京、西ノ京、薬師寺・唐招提寺はこちらでお降りください」みたいなアナウンスが聞こえてきた。
なんとなく反射的に立ち上がって電車を降り、唐招提寺は東山魁夷の襖絵のある御影堂が大改修で見学できないことなどは知っていたので何年か後に見学に来るつもりだったのだが、それはそれとして、寄ってみることにした。
・・・のだが、特に薬師寺は、自分でもびっくりするくらい感動しなかった。
国宝の薬師三尊像やら重文の弥勒像やらがあるのに、全然心が動かないのだ。
ひとつは、かつて薬師寺の事務方に勤めていた友人が、その伏魔殿ぶりを散々に語ってくれていたからだろうけれど、何やらそれだけではなく、伽藍の一部を大修理している関係もあって、ビル改築の工事現場のような雰囲気だったのが理由だろうか。
整いすぎて、心を休める隙や親しみがないのだ。
境内に、土や緑が見当たらず、巨大な建築物しか目に入らないせいか。
ダメだこりゃ、と見切りをつけて、鄙びた感じのいい道を10分くらい歩いた先の唐招提寺を訪れる。
遠くに若草山が見えた。
あの辺りを、武御雷命(タケミカヅチノミコト)は、鹿に乗って通ったのだな。
常々鑑真和上に感謝の気持ちを持っており、以前東京の国立近代美術館で観た東山魁夷の襖絵を、いつか本来の場所で拝見したいと願っていたこともあり、今回それができないのは分っていたが、寺そのものに詣でるのも楽しみだった。
唐招提寺は、どの建物もいかにも奈良という感じの大ぶりな屋根が美しかった。
しかしやはり、廬舎那仏や薬師如来を観てもたいしていいとは思わない。
伽藍から外れたところにある、鑑真和上の墓所を訪ねる。
素朴な土壁に囲われたそこは、ひっそりと静かな場所で、昨日今日と、山の辺の道で無数の巨大な古墳を見てきた目には、この大きさこそが、かの不屈の高僧を顕彰し、その魂(という概念は仏教にはないと聞いたが)を休める霊廟にふさわしいのではないかと感じた。
私は今回の旅で、ワカタケルが駆け、覇権を確立し、歌を詠み、妻問いをした地を巡ろうと思った。
そして同じ時代に、人々が畏れ祈り行き交った道を歩いてみた。
その場所に鎮まる神々を訪ね、神と伝説の人々との区別が曖昧な時代を想像しながら歩いたあとでは、国の中心に仏教が座を占めてのちに作られた伽藍や仏像というものを受けとめて鑑賞するには、少々気持ちの向きが違っていたようだ。
ここは、やはり別の機会に訪れた方がよさそうだ。
駅までの道を歩きながら、なんとなくそう思った。
(1)こもりくひとり旅
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977716864&owner_id=24016198
(2)ワカタケルの谷
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977741426&owner_id=24016198
(3)こぐこぐ自転車
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977759022&owner_id=24016198
(4)準備は愉し
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977812809&owner_id=24016198
(5)神の坐す山
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977842310&owner_id=24016198
(6)山辺の道をあるく
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977880616&owner_id=24016198
(8)後日談・東京国立博物館にて
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977945164&owner_id=24016198
ログインしてコメントを確認・投稿する