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2019年10月11日01:04

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大人のクリシェ(常套句、すなわち駄ボラ)を子供に押しつけないでほしい。たまたま近接して見た2作品に思う。

ひとつはボー・バーナム監督「エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ」(2018)で、もうひとつはマーク・フォスター監督「プーと大人になった僕」(2018)です。前者は劇場で、後者は有料BSで見ました。

「エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ」は、8年生となって中学を卒業するケイラ(エルシー・フィッシャー)が、学校内で友達がなく、高校進学に不安を抱いているという設定。父親マーク(ジョシュ・ハミルトン)母親が遠くへ行ってしまったと聞かされているけど、死んでしまったものと彼女は考えています。

このケイラと父親のディス・コミュニケーションが、僕には不満だらけなのでした。娘が感じる父親への反発が明確には描かれず、まるで小学生のように気まぐれなだけ。父親の方も、思春期の娘に遠慮しているという感じの割には、母親不在以後の日常生活を考えたら、もう少し親密さがあるだろという具合なのです。そうでなければ娘はグレてるか家出しとるよ。もう少し内気さを際立たせる描写があってもいいと思う。というかケイラは、ネット画像ではしゃぎすぎですわ。

でもって、高校への体験入学で4つ年上のオリヴィア(エミリー・ロビンソン)が担当となり、一気に大人の世界を垣間見るのですが、父親がケイラをつけ回したり、高校生がケイラに手を出しかけたりと、しょーもない展開が続く。このひとつひとつで、ケイラの内面がにじみ出ていたらいいんだけど、深く心に刺さらないのです。

でもって、父親が“どんな子供でもかけがえのない宝だ”というクリシェで、さっさと物語が終了するわけです。卒業式でそれまで冷たくされた同級生に反論したつもりでいても、きっと相手は噴き出して終わりでしょう。その“すれ違い”を明確に描けば、もっとマシな作品になったはず。

もう一本「プーと大人になった僕」は、「くまのプーさん」を全く知らない僕には、そして永遠の13歳である僕には、“大人になることが間違いなのは明確”であって、いい子になろうとしたクリストファー・ロビンの敗北は自明の理なのでした。それが家から強制されたものであっても、自分の人生に持ち込んだら“負け”です。

そういう負けだけならともかく、子供のころの気持ちを大人になって再現すればハッピーな生活が待っているという単純な発想はいかがなものか? ロビンは、組織ぐるみで収奪されている旅行用品会社に勤めているわけで、“社員に有給休暇を与えれば、自社製品を買って旅に出る”なんてばかげた“解決策”が通るはずがない。

ま、それらすべてが“夢”だという童話なのかもしれませんが、幼いころの夢の世界に浸ることは社会的な解決になろうはずがない。こういう“幼いころの思い出を大切に”とか、“夢はいつまでも忘れず”というクリシェは、“自分の祖国を愛せよ”とかの論理と同じで、管理する側の利益にしかならないわけです。

もちろん僕は、幼いころの夢を捨てろなんていうつもりはありません。その夢を大事にするという些細なことが、会社を救いひいては社会を救うという、そのクリシェに反対しているだけ。そんな駄ボラは、500円で売ってやりましょう。って、誰も買わないけどね。

しかしまあ、たまたま続けて見た2本が、社会に適応した大人になるための教則本で、その裏返しみたいな「ジョーカー」が、不愉快極まりない主人公にもかかわらず、“泥棒にも三分の理”というクリシェをすんなり納得させてしまっているというのは、まさしく“世も末”だということでしょう。

折しもテレビのニュース番組では、台風15号による被害者に対し、“すべての人が、それぞれ出来ることをして救援を”と呼び掛けるだけで、政府による救済がどうなっているのか全く報道しません。このままでは“ジョーカー待望論”が力を持つかもしれないわけで、せめて僕が生きている間くらいは無事であるよう願っております。
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