mixiユーザー(id:7656020)

2018年04月15日17:38

1837 view

メンデルスゾーンによるマタイ受難曲の蘇演について

 メンデルスゾーンによるマタイ受難曲の蘇演はいかなるものであったかという問いかけの答えとしては、先日早世が伝えられたバッハ研究家礒山雅氏の著作『マタイ受難曲』中の蘇演時の楽譜に基づいて演奏されたCDへの演奏評が僕の接しえた範囲で最も詳しい記述でしたので、まずは引用させていただきます。なお残念ながらこのCDの現物にはいまだにめぐり合えないままです。ちなみにこの本の刊行は1994年。僕の手元にあるのは翌95年の第2刷で、引用部分はSP時代から1992年にかけて収録されたこの曲の36種におよぶ全曲盤の演奏評に続く37つ目として、484頁から486頁にかけて記されています。

−−−−−−−−−−

クリストフ・シュペーリング指揮
新管弦楽団&コールス・ムジクス
福音書記者:ヴィルフリート・ヨッヘンス
イエス  :ペーター・リーガー
ソプラノ :アンゲラ・カジミルチクュク
アルト  :アリソン・ブラウナー
テノール :マルクス・シェーファー
バリトン :フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ
1992年4月16〜25日 ケルン・ドイツ放送スタジオ
(仏オーパス・プロダクション ops30−72〜73)

 番外として、なんとも凝ったCDをご紹介しよう。これは「マタイ受難曲」の受容史に画期的な意義をもったメンデルスゾーンによる蘇演を、忠実に再現しようとしたものである。メンデルスゾーン自身の使ったスコア(ただし1829年のベルリン上演稿ではなく、1841年のライプツィヒ上演稿)を基礎とし、演奏当時の楽器を使った考証の高さが、この盤の売りになっている。
 メンデルスゾーンがどんな形で「マタイ受難曲」を復活させたかは、最近木村佐千子さんの研究によって、細部まで明らかにされた。詳しくは同氏の卒業論文をご覧いただきたいが、私なりに一般的な要点をまとめれば、次のようなことになろう。すなわちメンデルスゾーンは、アリア9曲とコラール6曲、および聖句の若干をカットし、全体を3分の2に短縮。みずからピアノで、通奏低音パートを演奏した。オーボエ・ダモーレやオーボエ・ダ・カッチャなどの珍しい楽器はクラリネットで代用し、必要とあれば、移調も行った。またアルトの歌う楽曲のうち4つを、ソプラノに割り振った。そして、合唱曲を中心に、強弱や速度、発想などさまざまな演奏上の指示を、スコアに書き込んだ。
 1841年のライプツィヒ上演稿というのは同年の4月4日、すなわち棕櫚の日曜日に、いわゆる「歴史的コンサート」の一環として、聖トーマス教会で行われた「マタイ」の再演である。メンデルスゾーンは29年に作成したパート譜を再利用したが、アリア4曲とコラール1曲を復活させ(ただし再現部や中間部が省かれている曲がある)、通奏低音をピアノでなく、チェロとコントラバスの和音で演奏させた。
 メンデルスゾーンの解釈はその後の「ロマン的再現」の出発点となったものであるから、さぞ厚化粧かと思って聴くと、決してそうではない。メンデルスゾーンは合唱を表現の中心に据え、随所で幅の広い、個性的な表情づけを試みている。それは華麗であり、ロマンティックである。だが演奏の歴史的志向のゆえか、古楽器の地味な響きゆえか、それはとってつけたようには響かず、さすがと思わせるひらめきを感じさせるところも随所にある。地震の描写の弦楽器による合奏も単なるユニゾンであるから、この演奏を聴く限り、それほど誇張したという感じは受けない。
 とはいえ、メンデルスゾーンがバッハの音符を変更しているところは、残念というより、聴くに耐えない。ソロ・テノールの音域が狭かったためだろうか、福音書記者のパートの高音域はすべて下に折り返され、時には、1オクターヴ下げられているところもある。高まるべきところがその都度これでは、気勢が削がれることおびただしい。反対に、アルトからソプラノに移された「憐れんでください」のように、思わぬところで歌が高く舞い上がる曲もある。また細部においては、バッハの指示した装飾音(とくに前打音)が省略されるのが問題で、まことに居心地が悪い。バロック的な表現のアクセントが、これでつるりとなくなってしまうのである。
 和音楽器なしの通奏低音も、当然ながら、間延びしている。というわけでこのCDは、「マタイ」を鑑賞するというより、歴史のひとこまを覗くための手段と割り切って聴くべきだろう。演奏も歴史的再現に配慮が集中した感じで、当時におけるバッハ発見のスリルと興奮が伝わってこない。それこそが重要だと思うのだが。

−−−−−−−−−−

 この文章からもわかるように今日の学問的な緻密さや厳格さに基づく古い音楽の再現という発想自体がメンデルスゾーンの時代にはまだなかったのですから、礒山氏のような研究家の立場からすれば聴くに耐えない箇所があちこちにあるのは仕方がないとも思えますし、メンデルスゾーン自身はまだしもそのときの歌手や演奏家にバッハへの思い入れがあったとは到底思えませんから、演奏にバッハ発見のスリルや興奮が感じられないとの苦言も少々的外れというか、礒山氏にとってのバッハの価値観が無意識的に浸透している感もなしとしないというのが正直なところです。以前に書いたように、1829年の蘇演は慈善事業という形で実現したイベントであり、至高の芸術を精確な時代的考証に基づいて再現しようとする現代の蘇演とはかけ離れたものでした。その前提として、欧州の人々にとって身近な聖書の物語をラテン語ではなくドイツ語で綴ったこの作品は、我々日本人にとってどれほどハードルが高かろうと、当時のドイツ人にとって少なくとも表面的には難解でなかったことを忘れてはいけないと思います。日本語で歌われる民話劇が我々にとって難解でありえないように。

 その後も第2次大戦後でさえマタイは省略して演奏されるのが常でした。礒山氏の取り上げた36種の録音中、省略が全くないという意味での全曲盤は1950年録音のシェルヘン盤が初めてでしたし、実演においても省略しないことが定着するのはさらに時代が下ってのことでしたから。いいかえれば1950年代までのクラシック界の「伝統」とは決して精度の高いものではなく、日本人にとっての能や狂言の伝承の水準でそれらをイメージするのは危険でさえあることなのです。オペラにおける演出がいかに古い作品を現代的な感覚に仕立て直そうとしているかとも通じる姿勢がそこにはうかがえます。
 そう考えれば学術的な精度で往時の楽曲や演奏スタイルを復元する試みに僕が共感を覚えてしまうこと自体、あるいは日本人の感覚ゆえともいえるのかもしれません。ひょっとすると礒山氏や引用箇所に名前が出た木村氏のような日本人研究者たちの活動を支えているのも。

6 8

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年04月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930