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2017年05月23日19:48

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太田愛の小説作品:その1

 そんなわけで、ここからは『犯罪者』『幻夏』『天上の葦』の3作を、技法的な観点から少し見ていきたいと思います。
 まずこの3作は、いずれもミステリー形式で社会的なテーマを扱った点が共通しています。そのためストーリーは謎が次々と提示されては解明されてゆく過程として提示されます。その意味において作中のできごとを支配しているのは日常の法則ではなく、ある種の論理構造に裏打ちされた心理的効果の連鎖ともいうべき人工的な原理に制御されたものになっています。これはゴシックロマンスに端を発する近代的なストーリーテリングの大きな特徴なので、今回はこの近代的な技法がより古い物語の技法とどんな点で異なるのかを少し整理しておきたいと思います。

 洋の東西を問わず、近代以前の物語はいわば世界の秩序や枠組みを受け入れるためのものでした。それらの秩序に背いたり枠組みからはみ出したりすることで罰を受けたり不幸を招いたりする因果応報の物語がその中核をなしていました。人が共同体の枠の外で生きることができなかった時代においては、物語は共同体の枠内に留まって生きることを最終的に肯定するためにこそ、語られ続けなければならないものでもあったのです。
 だからそれらのほとんどは三人称で語られるものでした。語る者も聞く者も登場人物の運命を知っていて、当の本人だけが己の行く末を知らないという構図がその物語空間をなしていました。ゆえに登場人物は常に見られる者であり、彼自身が自らの内面を語ることは通常なかったのです(ある意味これらの物語は映像というメディアがまだなかった往時において、その代わりとしての位置を占めていたとみなすこともできるのかもしれません)
 ゴシックロマンスは18世紀の半ばにディレッタントの手遊びとして生まれましたが、やがて世紀の変わり目にはフランス革命や産業革命によりそれらの秩序や枠組みが大きく揺らぐ時代を迎えます。ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムス』やメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』そしてゴシックロマンスの形式や約束事に従いながらも内容的にはアンチとしかいいようのないオースティンの『ノーサンガー・アビー』などはそんな時代に生み出されたのでした。
 けれどここで注目すべきはそれらの果実が生み出される前の、土壌が準備される時期の動きです。貴族の時代が終わりゆく末期の日々にもはやファンタジーとしかいいようのない姿にまで粉飾された「いにしえの」「どこかの国の」物語群はもはや守るべき秩序も枠組みも持たぬばかりか、およそ現状の肯定などとは全く正反対の逃避的な心情から生み出されたものでした。しかもその顕れ方はいわば中世の悪しき遺産というべき男女の社会的な地位の格差ゆえ、男女の作風に明らかな違いを刻印するものともならざるをえなかったのです。開祖ウォルポールに続くベックフォードやルイス、果てはマチューリンに至る男性陣は現世への幻滅を吐露するかのような露悪趣味への傾斜を強め、かつての因果応報の物語をより救いのない陰鬱なものへと書き換えてゆきました。その意味でルイスの『マンク』やマチューリンの『放浪者メルモス』などがいずれも古き時代の語り口の中でもはや道徳的規範は死に絶えたとでもいいたげな堕落と地獄堕ちの物語になっているのは印象的です。多くが特権階級に属し政治に関与できる立場にいながらそのことに興味をなくしていた男性作家たちは、旧来の語り口を大枠を踏襲しつつ陰惨さや背徳的な要素などを盛り込むことでより扇情的な、後のヴィクトリアンスリラーへと至る道を準備したのでした。この流れの中から社会に対する幻滅ではなく告発や異議申し立てへと進んだのがゴドウィンですが、その結果『ケイレブ・ウィリアムス』からは超自然という要素が姿を消すことになったのです。この作品自体は必ずしも完成度が高いとはいい難い面がありますが、それでも彼が切り開いたその道の先に太田愛の長編3部作もまた位置しているのは事実なのです。

 その一方で社会からより隔離され抑圧的な位置に留め置かれていた女性たちはより切実な形で現実逃避を夢見た結果、我が身に起こってほしいと願う出来事を紙の上に綴っていったのでした。彼女たちの作品が男性陣のそれよりはるかにおとなしいものに終始したのはもちろん女性がより強く規範による束縛を受けていたことが最大の要因でもあったわけですが、だからこそ自分の身に起こってほしい物語として夢見た結果過度な残酷さや悲惨さから遠ざかったからでもあったのです。そして自身を、そして読者を主人公として代入できる物語を書こうとした結果、彼女らは古い因果応報の物語にはなかった技法を切り開いたのでした。それが一人称の語りによる視野の制限とその埋め合わせとしての内面の描写だったのです。これを男性陣の中でのゴドウィンのように新たなジャンルの誕生につなげたのがオースティンですが、彼女にしてもゴドウィンの娘メアリーにしても彼女らの作品がその徹底ゆえに今日も命脈を保っているあたり、女性陣の創作活動に通底する切実さを想わせずにおかぬものがあります。

 こうしてゴシックロマンスというジャンルを揺り籠に生まれた近代小説の手法は、そこから自然主義や写実主義が生み出された時点で文明開化の日本に丸ごと持ち込まれ、私小説の一大饗宴を現出させたのでした。そのとき伝統的な物語の手法は古きものとして否定され、日本の文芸はそこから逆に純文学とエンタメ文芸を序列化を伴う形で再度分離させなければならなかったのです。そんな感慨も胸に抱きつつ、次回は太田愛の長編3部作の設計にいよいよ注目していきたく思います。


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