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2016年07月25日16:09

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赤い鳥 小鳥

  赤い鳥 小鳥
  なぜなぜ赤い
  赤い実を食べた

白秋が詩を書いたこの歌は誰でも知っているだろう。だが、この内容が嘘だと目くじらをたてる人もいないようだ。カレーを食べたから黄色くならないことは子どもだって知っているからだ。しかし、赤い実を食べた小鳥が赤くなった、という物語はなんと鮮やかで美しいのであろうか。

それは赤い実を見た時のいきいきした輝きと羽根に包まれて躍動する鳥の生命力のようなものがイメージで結びつくからだろう。最近、木になる実を見たり熟すのを待ったりすることが多くなって、私はその美しさに驚いている。そして鳥たちはもっと激しく待っているだろうと思うのである。

赤い実を食べたら赤い鳥になった、というのは嘘だとみんな知っていると書いたが、初めてこの世界について考え始めたばかりの幼児だったら、まともにそうだと感じるかもしれない。そうしたあやうさもまたこの詩の魅力となっているに違いない。世界中の「火はどうして人間に(私たちの部族に)もたらされたか」という神話には火が鳥の嘴や羽を赤くしたという物語が無数にある(たとえばJ.G.フレイザー『火の起源の神話』参照)。大人たちがその物語を伝えたのは、幼児が信じてしまいそうなものと似た何かを心の奥底に秘めているからだろう。それは嘘だが神話でなら真実となるのだ。詩が発生するのはそうした不思議な空間からである。

春から初夏にかけて花を咲かせる樹木は多い。彼らが秋から冬にかけて実を輝かせるまでの時間はほとんど目につかない。花がしおれると茶色や黒っぽく汚れているだけのように見える。それらが落ちたあとに実の元ができるが、緑っぽいものが多いので葉と区別がつかない。それが夏に進んでいる(夏というものは案外そうしたものだ。暑いばかりで人間もその時期を甘美に思い出すことは少ないが、何になるともわからない子どもが少しずつ育っている時期なのだ)。ある時期になると花の痕跡でしかなかったものが実となり色づいてきて、道行く人たちの目を奪う。花も葉も失った時にもっとも鮮やかな色・形姿になるものも少なくない。それを見た詩人は、あの赤い実を食べたら鳥は赤くなるのだと思うのである(天才詩人だけがそれを詩にする。凡庸な詩人たちは、そんな詩はいくらでも書けると思うことだけが得意である)。

ところで、あの赤い実はそのように魅力的だが、どんぐりはどうして子どもたちに愛されるのであろうか。あれは男の子だけが感じる魅力であろうか。それとも女の子も好きなのだろうか。二年くらい前に朝、幼稚園か保育園児たち10人ほどを若い女性の先生が引き連れて歩いているのに出合った。子どものひとりが柵の向こう側にドングリが落ちているのを見つけた。それを拾おうとして手を出すと、先生が犬を引き戻すように襟を引っ張って、早く歩きなさいと他の方向へと促す。子どもはますます犬になって、そのドングリを取ろうとして必死だ。結局ひとつも取れずに引き立てられていった。1分あれば取れただろうと思うと、その時間を惜しむのはなぜかと思うが、保育の現場に口出しなどできない私であった。そんなに欲しいのか?と私は改めて思った。その子の気持ちはよくわかるので。だが、なぜなんだ。どうしてドングリはそんなに魅力的なのか、私にも不思議である。あの実ははなぜか「遊ぶ動物」としての人間を刺激するのである。きれいな「赤い実」ではなく地味な色をしているのに。
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脈絡もなく長くなったが最後に昨日のマテバシイ関連の日記の修正を写真面でも行なっておこう。
昨日は、これから大きくなる未熟な実(昨年受粉)を「ドングリの赤ちゃん」と紹介したが、本日、正真正銘の今年の花からできた来年に実るであろうドングリの「赤ちゃん」を写真に撮った。図鑑に出ている「受粉後二ヶ月」の写真とも照合できた。とても小さいのでよく見ないとわからないのであった(写真・左)。幼稚園か保育園児が犬になっていたのは、この木の下でであった。

ちなみに今年5月21日に撮影した同じマテバシイの花の写真も。ここに一緒に写っているドングリの殻斗のようなものもすでに二年目のものである。そこで、違う年のものが同居していると錯覚したのだった。しかし指摘された点に注意してよく見ると、同じ枝にはそれらが同居はしていない。新しき花は新しき枝にのみ咲いているのであった。(写真・右)
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