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2016年04月11日16:21

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便所の戸のつまみ

中村明美さんの短編小説『南雲』(ゆきのまち幻想文学賞入選)のコピーをいただいたので読んだ。詩のような小説でとてもよかった。ただ、ここで書きたいのはその評価ではない。その中にこんな描写が出てきた。

「慌てて戻りかけると左手に板戸があるのに気がついた。小さなつまみを動かしてみると、するりと開いた。手洗いであった。錠もない。つまみを左に寄せると閉まるが、向こう側からも容易に開くはずだ。そう思いながら覗くと、ここだけが安請け合いの作りもののように、白く明るいのだ。」

昔のトイレ(当時は「便所」、「手洗い」だった)はこうであった。それを懐かしむ同好会をしたいのではない。ただ、つまみを左右に動かすだけで開いたり締めたりするトイレはある意味、日本の家屋の象徴のように思える。よくよく考えてみると、内側にはもう一つ棒があって、それを動かすと外からは開かないという、やや複雑な仕組みのある戸もあった。

一般家庭では、各部屋もふすまか障子でしきってあるだけで錠をかうということはなかった。と言ってからウサギ小屋的な我が家を考えると、今もそうである。トイレは鍵付きで例外だが。家族というのは、そういうものだ、という思想に基づき設計されている。畳の上でハダシで歩いている同士なのだ。ハダシというのは裸に通じるものだ。靴やスリッパを履いて、鍵付きの戸で隔てて家族が暮らす欧米との感覚の違いがここにある。密室殺人など起こりようがない。密室そのものが存在しにくいのだ。

団地の玄関の扉は外敵に対して案外堅固である。しかしいったん中に入ったら、昔の襖で仕切ってあるだけの構造となっている。気付けばトイレだけは頑丈な扉でノブを押す施錠式である(我が家では誰も使用していないが)。これをみると、トイレは開けられた時の羞恥度が高いエリアなのだろうか。そんなことを考えながら小さい頃のことを思うと、手洗いの、あの小さなつまみを左右に動かすしくみは、少年なりに頼りないものであった。夏になって初めて短パンになった時にすーすーする裸に近い感覚。日に何回もトイレを使っていて、そのたびに何かを感じていたのに、それを表現することができなかった。

それが67歳のある日、友人の小説の一節を読んで思い出すという不思議。繰り返すが、懐かしいからというのではない。そこにある、日本の肌を寄せて生きている家族のあり方とか、一方ではプライバシーの考え方の流入のようなものなどが微妙に溶け合っていた時、こどもの私は何かを感じているが、それが何であるかなどはわからず(というか、考えることさえせずに)生きていた。これは他のあらゆることについて言えることだろう。誰かに言われてはじめて気付くことがある。「プライバシー」とか「セキュリティ」(それはそれで大切だが)と言ったとたんに逃げていってしまう何かでこの世は満ちている。

そこでふと思うのは、小説と詩とはこの違いなのではないだろうか、ということだ。その先は理屈が追いついていないので、ここではその説明ができないが。昔は家のどこにも神がいたというが便所の神さまはなぜか一番説得力があった。暗い廊下の先に他より暗い電球(ニショク電球と呼んでいたような気がする)がついていた。外と中を同時に照らせるようにそこだけ四角く切られているのもすーすー感を助長するのであった。

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