mixiユーザー(id:1041518)

2015年11月10日16:44

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言いなおし

マイミクさんの日記で面白そうなハイデッガー『フライブルグ講演』を読もうと思いアマゾンで探す。全集版『ブレーメン講演とフライブルグ講演』でいいのだろうと思って注文しようとしたら「一時的に在庫切れ;入荷時期は未定です」とあり焦った。この「一時的」が長引くと手に入らないどころか高騰のオマケ付きとなることが時としてある。幸い看板に偽りはなく一週間くらいあとに買えた。ついでにそれより安めの『カッセル講演』もクリックしてしまう。それらはとっくにわが家にたどり着いているが、いつになったら読めるのかわからない。今読んでいる『時間概念の歴史への序説』がまだ半分ちょっとあたりなのだ。

しかし、同書は前半「準備部」で苦戦したが、後半の「主要部」は面白い。『存在と時間』の素描みたいなものと位置付けられているし、確かに似たようなことが言われているのだが、それでも面白い。ハイデッガーという人はひとつのことを言おうとして幾度でも言いなおす。学生向け講義にしても、一回やったことを次の時間に「反復」と称してもう一度別の言葉で説明したりする。わかった?いやいや、こう言ったほうがいいかな、といろいろな例や比喩を用いてはてしなく言いなおす話がどれも面白く価値あるものとなる、というところがすごい。

「製品世界は、製品の使用可能性と同時に、利用者や使用者が生きている世界を、したがってこれらの人々をも現前化している。」

壊れた道具が逆に存在を輝かせるという論の延長である。壊れたものは本来の「使用可能性」を思い出させる。しかし、逆にそれが壊れていなくて、それを使う人がいなくなったらどうだろうか。この万年筆は、夫が愛用していたが亡くなってしまったという場合、その万年筆はそれを使っていた夫が生きている世界を指し示す。夫がそこにいるのが当然で、ご飯ができたから早く来てくださいと言っているのに、うん、すぐ行くからと言いながら机を離れずぐずぐず何かを書いているという日常風景を現出させ、その時手に握られているのがその万年筆であった……みたいなことが一瞬に妻を襲うかもしれない(明治〜昭和時代の文士を想像してみました。現代はパソコンだし)。「世界の中に有る」ということは、万年筆が書斎にあり、それはある家の中にあり、その家は東京にあり……地球の中に……世界の中に(宇宙の中に)ある、という果てしなく重ねられた箱の中にあるという形で「世界の中にある」のではなく、「〜となじんである」ことであり、その根幹は「内に有る」ことだと彼は言う。それは(有るとは何かを考え始めてしまった)人間が、外から人間を見るだけでなく自らがその中に有るという不思議な構造から発しているのであって計測可能性や数学上の整合性によってではない、と。

それと同じようなことでいうと「おじいさんの古時計」なんかも、なじんだものの喪失を言い当てた傑作ではないだろうか。昔、わが子の幼稚園の参観に行った時、園児たちが大声でこの歌をわめくように歌っていて思わず泣けてしまった。子どもたちにとっての祖父は私たちにとっては父親であり、親を見送る時間が近づいている頃である(私は数年前に亡くしていた)。年老いてこの世を去る者と残された頑丈な時計という比喩がふだん覆い隠されているものを露わにし、私は世界と出会わされたのだろう。意味もわからない子どもたちに元気に歌わせてその親に聴かせるというのは技巧的にすぎる。で、そののち歌唱力のある歌手がこの歌を歌っても何も感ぜず、幼稚園児のわめく歌声じゃないとダメでしょ、と思うようになってしまった。これは「頽落」であろうか。

とにかく、ハイデッガーは次に読む本もすでにあるので、あまりケチケチ読まなくてもいいという富裕層感覚になっているところである。

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