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2015年03月11日17:18

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好奇心

私の読んでいるハイデッガー『有と時』は一冊の本なのだが、それに対応する岩波版文庫では3冊目が終わってしまったので、全体の四分の三を経過したところのようだ。

「頽落の時(とき)性」(第68節c)は「好奇心」に限って展開されている。

「好奇心」は<新しい物事を貪り見ようと欲すること>であるが、それはじっとそこに留まりつつそのものを理解するためではなく、ただ<何でもかでも見るためであり見てしまっている>ことである。それは可能性を考慮したことからの<予期>でもない。単に現実的なものとしてのみ、好奇心の内で欲求しているのであって、むしろ<予期>からの脱走である。新しいものを獲得するや否やそれを見放し次のものへ向かっている、というふうにひと時も<じっとしていない>欲望であり、自分自身を<所在無さ>の中に自縄自縛し、それゆえにまた、ただ飛び出して<散乱した気晴らし>に向かうしかない。

もしひとが一切を見てしまったとしたら、何をするだろうか。「その場合にはまさしく好奇心が新奇なものを《案出》するのである」とハイデッガーは書いている。それほどにしてまで、現存在(人間)は自己へ帰来することを避け、安らぎのない気休めの中を生きようとするのである。

好奇心が何かに到達した瞬間にはすでに次のものに向かっている、ということはそれ以前を忘却してしまっていることを意味し、それは<増大する忘却>とも呼べるが、これは好奇心から初めて生じる結果ではなく、好奇心そのものを可能にする存在論的制約である、とハイデッガーは言う。忘却や(存在や真理への)被覆は、常に存在論の核心を暗示するものだが、今やそれは時間の考察なしには語れないところに来ている。このあたりは注意深く読まないとワケがわからなくなる。

【メモ】返却する岩波文庫『存在と時間』3の表紙のギリシャ語は「兄弟たちよ、その時期と場合とについては、書き送る必要はない」(『新約聖書』「テサロニケ人への第一の手紙」。意外なものが載っていた。「場合」を示す「カイロス」が第65節に出てくる「瞬視」の原型との理由からだという。そういう意味もあるのか(私の辞書にはない)。「χαιρω」(カイロー)という動詞は私の好きな語だ。喜ぶという意味で、それが別れの際、相手を祝福する意味から「ご無事で」「さらば」と転用されるようになった。「場合」も「瞬視」も、どうして出てくるのかわからないが、いつか分かる時が来るかもしれない(聖書用のギリシャ語辞典には載ってるのかな?)。



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