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2014年12月02日17:06

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「高い高い」

幼児は「高い高い」をされるとどうしてあんなにキャッキャッと声を上げてうれしがり、肩車をされると満足そうに世界を見渡すのか。たぶん、いつもの自分の目の高さから見るのとは違う光景が開けることへの驚きと喜び、あるいは不安感などによるものだろう。「高い高い」はコワさもあるのだろうが、それをしてくれるのが父親とか身近に信頼している大人なので、その不安・恐怖を打ち消してくれることへの喜びもあるのかもしれない。知らない人が突然やってきて同じことをしたら恐ろしくて泣き出すことだろう。

人間が何かを知覚するのは目や耳や鼻その他の感覚器官によってだということは誰もが知るところだが、真に身体の感覚が認識の源泉であることを忘れているような気がする。私自身、認識の材料を集めてくるのが知覚であってそれらがいくら集まっても現象にすぎず、精神や本質とはなりえないではないか、という精神と肉体の二元論から逃れ切れないできた。そのゆきつくところは神の理性であり、その支部が個々の人間なのだという考えにはどうしても賛同できないが、絶対にこれだという満足すべき説明にたどり着けない。

たとえば、ガリレオ・ガリレイの地動説の正しさが認められるようになったからと言って、「朝日が昇る」という文章を書いてもお咎めは受けない。私たちから見ると、やはり東の空に太陽は現れ、西の空に沈んでいく。なぜだか分からないが、日没時の太陽は極端に大きく見える(人間だけでなく水平に二つ目が並んでいる動物には同じように感じられるらしい)。つまり太陽と惑星のことを考える時は、そうした運行モデルを頭に描きながらも、日常生活では、お日様は空をめぐっていくものとして私たちは生活している。しかし、もう一歩考えてみると、ガリレイ的な事実を科学として手に入れたのはよいが、その直後から失ったものはないのか、とも思う。神を中心とする観念的天体論を打倒した科学は、青い鳥が死んでたちまち灰色に変わっていくように新たな怠惰さとしての科学=観念論に変わってしまっているのではないか。現実に見えているものを捨て、抽象的なモデルで生きようとしているのではないか。

メルロ・ポンティは「人間は肉体を持ちいやおうなく地を移動しなければならない生物」であると言っているが、そこから知覚する世界を真剣に捉えなくてはならないような気がするこの頃である。私たちは、蟻を見て自分を神のように感じたからこそ、自分を蟻のように見立てて神を作り出したのではないだろうか。自分が蟻のような存在であることを忘れようとして。蟻にとって犬やネコは大型台風や地震かもしれない。こういう雑駁な喩えは全く無意味としても、身体から発した人間固有の認識の仕方には非常に興味が湧く。メルロ・ポンティ『眼と精神』の第一章はフッサールを論じているが、この前読んだばかりのフッサールをオレは読めてないなぁと感じる。非常に分かりやすく語られていて眼が開かれた。今、読んでいるのは「幼児の対人関係」でその次が「哲学をたたえて」、最終章がイマージュや絵画を論じた「眼と精神」。楽しみだ。

ガリレオが地動説をもたらした前にも、それどころかそれより数千年も前、「文明」などと言われる以前にも、子どもたちは「高い高い」をすればキャッキャッと金切り声を出して喜んだのではないだろうか。そんな記録はどこにもないので、実証できないが、人間はそういう生物だとしか思えないのである。蟻でもなく神でもなく、人間の形をした生命が喜んだ声がそこにある。歳をとると、そうした声を聞けただけでも私の生きた意味はあったと思える時がある。本能と言われればそれまでかもしれないし、「なぜ」と問うのが愚問であっても、「どのように」と問うくらいは許されるだろう。


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