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2013年01月30日18:18

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ライナーの「悲愴」

 シカゴSOとの一時代を築き上げ、その栄光の一端を米RCAへの数多くの録音に留めているフリッツ・ライナーの遺産のなかで、彼が残した唯一のチャイコフスキーの交響曲録音である「悲愴」に言及するファンはほとんどいません。ベートーヴェンやバルトーク、R=シュトラウスなどにおける峻厳さや迫力について語られることは多くても、それらと並んでこの「悲愴」のことが語られているのに接したことはありません。

 確かにこの「悲愴」は、一聴しただけでは一般的なライナーのイメージとは距離のある演奏です。あまり凄みがむき出しにならない、彼としてはおとなしい印象の演奏とも聞こえます。だからほとんどのファンに彼としては成功しなかった演奏だと思われ、それで終わっているのではないかという気がします。

 けれどこの演奏の姿勢がどんなものかは、少し注意して聴いていれば第1楽章の序奏が終わってすぐ手がかりが掴めます。序奏から導き出された第1主題が最初のクライマックスに達する直前で2回繰り返される印象的なトランペットのフレーズがあって、当然2度目の方が音量が上がるようになっていますが、ほとんどの演奏ではただ音量が上がるだけでニュアンスの違いまで与えている演奏はめったにありません。それに対しこの演奏では、単に音量がずばぬけて小さいのみならず、異例に柔らかいニュアンスを与えて2度目との落差を大きく取っています。いったんそれに気がつけば、随所に同様の処理が施されているのが見えてきて、この演奏が大きさや強さのみならず小ささや弱さというべき領域の表現に大変な注意を払っているのが理解されるはずです。

 その結果この演奏は、曲全体が息つく間もない激しさや緊張で覆われたというのとはかなり様相の異なる、一見さりげない運びのなかで旋律の微妙な粘度の違いや細かい楽器の出入りのニュアンスなどを描き分けた、ハイブロウとしかいいようのないものになっています。ぱっと見は普通だけれど実はものすごくレベルが高い、徹底的に通向きの演奏なのです。

 管弦楽曲、それも交響曲のような曲種の場合、名演奏に対する我々のイメージはともすればより強く、より大きな、より激しいものという具合にエスカレートしがちですが、それはいわば料理の味付けが知らず知らずのうちにどんどん濃くなっていくのにも似た一種のインフレ現象ではないかという気がします。その結果行き着くのがソ連系の演奏に多かった、あまりに力感や身振りが大きすぎてオーケストラが持てる力をどこまで振り絞れるか競争しているような演奏だったのではないでしょうか。音楽は人民を鼓舞しなければならぬとのテーゼのもとで弱さや耽美が許されなかった社会的な特殊事情ゆえに極端な顕れ方をした面もあるのでしょうが、あまり性急に音楽に感動を求めようとするとえてして音楽を競技スポーツと勘違いしたような結果を招きがちだということを、あれらの演奏は身をもって示していたのかもしれません(こんなことをいうと叱られるかもしれませんが、旧ソ連が掲げたテーゼがあんなものになったこと自体は実はさほど変なことではなく、案外我々が芸術に抱きがちな心情と根っこの部分は同じだったのではないか。そんなありふれた凡庸な芸術観を国家権力が強制し、それ以外は存在さえ許さなかった点が異常だっただけなのではという気も正直いってするのです)

 マーラーより20年近く早く、20世紀の到来前に亡くなってしまったチャイコフスキーはいうまでもなくロシア革命とは無縁であり、旧ソ連社会で多くの芸術家があわされた目を免れていたわけですから、僕などはあまりにもマッチョに過ぎる旧ソ連系の演奏より、優麗耽美の極みのようなアブラヴァネルの方が本来の姿によほど近いのではないかとついつい考えたりするのですが、ライナーがここでチャイコフスキーをベートーヴェンやバルトークのように演奏しなかったことにこそ彼の音楽家としての見識や力量をみる思いがすると同時に、もしこの演奏が仮に薄味に思えるならば、それは我々の感覚がいつの間にか「より強く、より大きく」へ傾いている証拠かもしれないとも思うのです。その意味からもこの演奏は僕にとって、音楽的感覚のいわばメートル原器としての位置を、今後も持ち続けることでしょう。

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