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2012年01月16日00:50

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つぎはぎされた水の精

 ドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」を観劇された方の感想を拝見する機会がありました。その中でその方は、水の精ルサルカの一途な想いに比して王子の一貫性のない性格が水の精の想いに釣り合うものとなっておらず納得がいかなかったと記しておられ、確かにうなづくところのあるご意見だと思いました。このオペラは婚礼の場以降の整理が悪いというか捌き方がごたついていて、王子のキャラクターがいかにも場当たり的に感じられる面があるのです。

 水辺で見かけた王子を見初めたルサルカは、父王の諌めも聞かず魔法使いに人間にしてもらい王子の城へ赴きますが、その美しさに婚礼をあげることにした王子は人間の言葉を話せぬルサルカへの興味を失い、客人である隣国の公女に心移りしてしまう。すると城の噴水から父親である水の王が現れ王子の裏切りを呪い、嘆く娘を水底に連れ戻す。恐れた王子は公女に呪いを解いてくれと頼むものの相手にされず、ようやくそこで自らの非に気づき、水の精に戻った相手に出会えば死ぬ定めの身でルサルカのもとへやってきて許しを乞い、最後はその腕の中で息絶えるという筋書です。

 ご覧のとおり、これは昔から世界各地に伝わる異類婚の系譜に連なる物語ですが、直接母胎になったのはフーケーの「水妖記」とアンデルセンの「人魚姫」でしょう。前者は岩波文庫で邦訳も出ていましたが、オペラの筋書との最大の違いは両者が結ばれたものの、人間である王子(この小説では騎士)が姫が人間でないことを次第に意識し始め、それが不信へと形を変えてゆき遂に破局を迎える過程を中編の枚数の中で描いている点です。オペラとしてはこれだと長すぎるのも確かですから、これをはしょるために「人魚姫」から持ち込まれたのが姫が言葉を話せないことや、それゆえ最終的に王子の結婚相手とみなされずに終わってしまうことです。確かにこの処理のおかげで前者のような結婚後の長々とした部分は削れましたが、フーケーの小説はその削られた部分における騎士の心変りや魂を得た姫が知るに至る人の世の哀しさこそが肝なのですから、意味が通らなくなるのは当然です。

 台本作家の見識のなさに責があるのは明らかですが、考えてみればロングランになるタイトルなどめったになく、大半の作品はヒットせずに終わるのが当たり前の世界で食いつなぐには本数を稼ぐしかなかったはずですから、その意味ではこの台本に跡を留める粗雑な仕事ぶりもまた往時の舞台裏の実状の反映、人の世の哀しさの一つの姿とはいえるのかもしれません。

 チェコ語によるオペラということもありドヴォルザークの作品としても親しまれているとはいい難い作品ですので、CDもノイマン/チェコPOのものくらいしか国内盤はありませんが、コロムビアから出ているこの盤は今やディスクの中に歌詞対訳のPDFファイルが同梱されているというのが時代を感じさせ感慨深いところです。普通のCDプレーヤーではファイルを見ることができずあらかじめ印刷しておかないといけませんが、パソコンならコピーした対訳を画面で見ながら音声を聴くことになるわけですから。

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