「月下の獣人」第20話(MF〜MF)
「あれはなに?」
背後の妹の声に、トミーは目をこらした。赤黒い空を背景に、いくつもの影が丘を越えていくのが見えた。丘の麓には山小屋があった。黒い影はその小屋から出てきたらしかった。
「どこへいくんだろう?」
道は小屋の前を通って丘の向こうに消えていた。だがその先は雪原の彼方に広がる森。さらに先には雪山がそびえているだけのはずだった。小さな兄妹は道中こえてきた小高い丘の上からそのことを見て取っていた。それゆえ彼らも幼いなりに不審なことと感じたのだった。そして遠すぎてはっきり見えなかったが、身をかがめたような影の低い姿勢も子供たちには奇妙に思えた。
「いってみよう」
だが山小屋の前を通り過ぎようとした兄妹の足を、苦しそうな呻き声が留めた。山小屋の中からだった。戸が細く開いていたので、二人はそうっと中をうかがった。
暖炉に火が燃えていて、その前の床に二人の人影が横たわっていた。大柄な女と小柄な少年のようだった。その二人がうなされているかのように、荒い息をつきつつ呻いているのだった。
「おねつがあるの?」
トミーもそうだろうと思った。自分たちの母も熱が高いときはこんなふうにうなされることがあった。戸口からもれる暖かさに警戒心もやわらぎ、幼い兄妹は小屋の中に歩み入った。
「お水のませてあげよう」
部屋の隅に水瓶があった。そばにあった木の器に水を汲むと、トミーは暖炉の前に横たわる二人に歩み寄った。その音を聞きつけたのか、大柄な女が目をあけた。
線の細い母サラに似たところはまるでなかった。豊かな黒髪に包まれたはっきりした顔だちにはどこか野生味が感じられ、薄い毛布に包まれた起伏の大きな体つきも逞しいとさえいうべきものだった。
だが差し出された器を震える手で受け取ったその動作は、幼い兄妹が見慣れたものと同じだった。そして大柄な女は器を半分飲んだだけで、かたわらの少年をそっと揺り起こすと残りを分け与えた。その振る舞いも乏しい食べ物や水を分け与える母のことを思い出させずにはおかなかった。奇妙な安堵をトミーは感じた。マーシャもおずおずと笑みを浮かべた。
「すまねえ……」
そんな子供たちに、床の上に身を起こした少年は礼を述べた。脂汗にまみれた焦げ茶の髪がへばりついた粗野な顔は憔悴の色もあらわだったが、まっすぐな視線にこめられた感謝は深かった。女もそこまであけっぴろげではないにせよ、訝しげな面持ちながらも礼を述べるのは忘れなかった。
「……ありがとう、楽になったよ。だが、おまえたちは誰だ? どうしてこんなところに?」
「ママをなおしてってお願いにきたんだ。おばちゃんたちも病気なの?」
「俺たち怪我をしたんだ」
少年が毛布をおろすと、茶色の狩衣の胸からのぞく包帯に血がにじんでいた。女が脇腹を押さえて低く呻いた。
「ああ、この傷は簡単にはふさがらない」
「だったらおばちゃんたちのこともお願いしてくるよ。早くよくなりますようにって」
苦笑を浮かべつつ、女はやれやれと頭を振った。
「……お願いお願いって、誰に頼むつもり?」
「白い狼」
「なんだって!」
いきなり血相を変えた女の叫びにトミーは立ちすくみ、怯えたマーシャがその背にしがみついた。
「だめだ。あれは神様なんかじゃない。帰れ! 帰るんだ!」
痛みに喘ぎながら立ち上がった女は面食らった子供たちの手をわし掴みすると、脇腹を庇いつつも戸口へと引っ張っていった。少年がうろたえた様子で叫んだ。
「開けちゃだめだ! もう月が!」
女の足が止まった。一瞬の沈黙のあと、女の絞り出すような声が呻いた。
「……だが、ここにいたらすぐに皆が戻ってくる。あいつが近づいてくるのがわかるだろう? きっと私たちが目覚めたのを感じたんだ。あいつは人の意識が目覚めているとやってくる。意識が眠ると関心をなくすくせに」
「……なにをいっているの? おばちゃん……」
おずおずと問いかけるトミーを見下ろした女は困惑の表情を浮かべ口ごもった。そこへ彼方から低い響きが近づいてきた。
「蹄の音だ!」
少年の言葉が終わるより早く、それは小屋の表に差しかかると歩調をゆるめた。そして話し声がした。
「足跡はここで途切れているであります」
「じゃあ二人はこの中にいるの?」
「トミー、そこにいるのか? マーシャ!」
最後の声は兄妹にとってなじみ深いものだった。二人は思わず叫んだ。
「ビリーのおじちゃん!」
「おじちゃんじゃねえだろ。心配させやがって!」
ほっとした声とともに戸が開いたとたん、女が言葉にならぬ叫びをあげた。戸口の人影の肩をかすめ、冴えた月の光が一気に部屋を貫いた。
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「わかりました。行きます」
「お嬢様っ!」
困惑した執事の叫びを手で制しつつ、セシリアは奇妙な高揚に包まれていた。あまりのあっけなさに安堵と困惑の入り交じった面持ちのホワイトクリフたちを、黒い瞳がまっすぐ見つめた。
「私はお役にたてるのですね。みんなを助けられるのですね」
「そ、そうなんだ。あなたにしかできないことなんだ」
「お願い、です。助けて、下さい」
たどたどしく訴えかける兎頭の獣人にほほ笑みかけると、少女は白銀の笛を手にとった。例の冷たい感触が手に伝わり、思わず身震いがでた。
「お待ち下さい。すぐに支度します」
侍女はセシリアが寒さを感じないようたっぷり着込ませると、車椅子を玄関まで押すよう執事を呼びに部屋を出た。一人残ったセシリアは、鏡に映る自分に心の中で話しかけた。
こんな私にもできることが残っていたのよというと、鏡の中の自分がうなづいた。
ワーウルフたちを鎮めることを念じて笛を吹けば、子供たちやロビンを救えるの。
鏡の中で自分がほほ笑んだ。
椅子に縛られたまま一生を無為に過ごさずにすむわ。
自分の顔にほほ笑みが浮かぶのを覚えた。
私が英雄になれるのよ。
奇妙なまでの高揚が戻ってきた。
魔物を退治した英雄としていつまでも称えられるの!
「……退治、ですって?」
セシリアは思わずつぶやいた。鏡の中の自分の顔がこわばっていた。
ワーラビットの願いはそうではなかった。純白の獣人は彼らを鎮めてほしいと頼んだだけだった。白い狼に乱された魂を鎮めてさえくれればいい。月の欠けた今なら、それだけで彼らを故郷に連れて帰れるといっていた。たしかに聞いたはずなのに……。
とたんに想念の渦がどっとわきあがった。
だって人を襲うんでしょう?
力が強くて戦っても勝てないんでしょう?
だから頼みにきたんでしょう?
勝てないほど力が強いから。
力ではかなわないから。
力が強いから。
退治できないから。
殺せないから。
死なないから。
だから私が。
だから魔法で。
笛の魔法で。
退治すれば。
体は残る。
無傷で残る。
だから。
だかラ。
「……誰? 私の中にいるのは誰?」
かすれた言葉になにかが応じた。
私はあなた。
私はあナた。
私は人間。
私ハ人間。
だから魔物を。
ダから魔物を。
退治するのよ。
退治するのヨ。
「違う! それは私の思いじゃない。私はそんなこと考えない。だって」
かつて自分に寄り添った小柄な妖魔を、緑と赤の鱗に身を包み金色の瞳をしたメデューサの面影をまぶたに浮かべ、セシリアは言いつのった。
「私は魔物に、メデューサに命を救われたの。だから人間が魔物を退治して当然なんて思わない! 誰なの。私の中にいるのは。私になにをさせようというの?」
たちまちどす黒いものがどっと押し寄せ少女の魂に群がった。セシリアの意識は悲鳴をあげる暇もなくねじ伏せられた。
もはや言葉の形さえなさぬ情念の渦が荒れ狂っていた。苦痛、恐怖、無念、憎悪。それらの合間に多くの”貌”が、そうとしか呼べぬもののイメージが見え隠れしていた。やがて次第に細部が見えてきた。断ち切られた生への妄執、失われた肉体への渇望、そして死を免れた者への底知れぬ呪詛。
それが死霊、死者たちの怨霊であるとセシリアは悟った。年齢も性別も様々なものたちの影が戦慄する少女の魂の上を過ぎっていった。その中から自分に最も似たものの一つが魂に重なったと思うと、必死の抵抗にもかかわらずじわじわと染み込んできた。やがて肉体の自由が奪われた。
再び視線が鏡に戻されたとき、自分の瞳は違う色をしていた。見覚えのある浅い色だった。けれども誰のものかを思い出すより早く、たちまち鏡の向こうの自分の瞳も漆のような黒に変じた。そして口元が笑みの形に吊り上がった。あたかも着飾った自分の姿の遺漏のなさに納得したかのように。
執事が扉をノックした。けれども入室するよう応じる自分を、セシリアはどうすることもできなかった。
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