平成28年7月31日(日)、岐阜県〜福井県の廃村めぐり、
芋ヶ平からは、今庄町中心部を経由して、大河内(おおこうち)へと向かった。
大河内は『廃村をゆく2』でも取り上げた廃村で、
平成26年10月以来 2年ぶり。
前回は妻、井手口さんとその友人の4名で出かけた。
http://heyaneko.web.fc2.com/fs17.html
『廃村をゆく2』大河内の「集落の記憶」に登場する山田儀一さんは
「週に2、3度は大河内に来て、悠々自適のひとときを過ごしている」という。
集落の入口にクルマを停めて、
「会えるといいな」と思いながら砂利道を歩くと、
蔵跡の木影に山田さんの姿が見当たった。
「お久しぶりです」とご挨拶し、ミナカミさん夫妻を紹介すると、
蔵跡を囲んで、昼食をとりながら語らいのひとときとなった。
三八豪雪(昭和38年1月)のときは、その後2か月間道が通じなかったという。
時は高度経済成長期、三八豪雪は山を降りるきっかけのひとつとなった。
後に手紙で山田さんは、「離村の直接の引き金となったのは
「嫁の来てがなかったことではないか」と綴ってくれた。
昼食後は山田さんに分校跡と神社跡を案内していただいた。
堺東小学校大河内分校は、へき地等級4級、児童数9名、大正15年開校、昭和40年閉校。
分校跡の錆びた旗ポールは、前回見たときよりもすっきりとして見えた。
大河内には離村記念碑は建っていないが、
旗ポールは十分に「集落があったことの証」の役割を果たしていた。
画像1 : 大河内分校跡の錆びた旗ポール(1)
すっきりして見えたのは、山田さんが草を刈って手入れされたからに他ならない。、
『廃村をゆく2』大河内の記事には、往時の分校と旗ボールの写真が載っている。
画像2 : 大河内分校跡の錆びた旗ポール(2)
ポールに並んで立っていた雑木は切り倒されていた。
山田さんは「まだしばらくは大丈夫だな」とポールを持って話された。
画像3 : 大河内分校跡の錆びた旗ポール(3)
ポールの下で、山田さんとミナカミさん夫妻が語らった。
人物が入ったおかげで、高さは8mぐらいということがわかった。
(2016年 7月31日(日)午後1時45分頃)
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