mixiユーザー(id:77262)

2017年03月29日07:17

332 view

野平(その5)

平成29年2月13日(月)、青森県の廃村めぐり、
電話ボックス対面に停めたクルマに戻って、靴を長靴に履き替えて
雪原に建つ「留魂の碑」に向かって歩いた。

といっても、電話ボックスから碑までは100mほど。
天気は落ち着いていて、雪もほどよくしまっていて歩きやすい。

横長の碑の表面には、次のような碑文が刻まれていた。

=====

留魂の碑

 吾等曽て満蒙の大陸に朔北の樺太に雄飛するも、敗戦の憂目に会い、
再びは踏まずと誓いし故国の地に憔悴傷心を抱きて還る。
 本州最北、下北の深奥に住昔より斧鉞を知らざる原始林の地あり野平という。
吾等この地を三度青山の地と定め鍬を入れし者左の如し。
時正に昭和24年なり。

  元満蒙開拓青少年義勇隊   5戸
  元満州開拓団 山形団体  61戸
  元樺太開拓者       12戸

 以来昼尚暗き原生林開拓に言語を絶する辛酸の日々を刻み、
耕地となりたる後も、朝に星を頂き夕に月を仰ぎて耕す様は
野平小中学校の校歌に歴然たり。

 入植20年にして漸く生計の基礎成りたるも、折しも国の勧める経営適正化に伴う
離農助成策に、前途に光明を見ることなく、止むなく離農せる者42戸あり、
寂として声なくこの地を去る。
 残れる36戸、変転する農政下に愈々志を固くし畜産に畑作に協業共同経営化を
推進し、大いにその実を上げ将来を展望せむとする時、
たまたま川内ダム建設の議成り、朝野挙げてその完成を期さむとす。
 紆余曲折を経たるも、吾等野平住民は
30年に亘る艱難辛苦の地と汗の滲む青山の地を未来永劫に湖底に沈むるは
真に忍びざるものあれど、川内町勢伸展の大義に涙をのみて同意せるものなり。

 今吾等それぞれに新転地を得て野平開拓30年の歴史を閉じるにあたり、
蔭に陽に温情支援を賜りし関係各位に万腔の感謝を捧げ
今後にその恩義に報えむことを心に誓う。
 いつの日にか満々と水を湛え、吾等開拓民の苦闘の跡を鎮める
山上の湖畔に往時を忍ぶよすがと、
併せて野平に住せし36戸の開拓魂を留め、この碑を建立する。
 
 昭和56年 盛夏

===

要約すると、次のようになる。
 
 ・ 昭和24年、満州開拓団 山形団体を主とした78戸が
  野平に入植。
 ・ 入植20年(昭和44年)頃までに、離農助成策により、
  42戸が離農。
 ・ 残る36戸が、畜産、畑作の協業共同経営化を成し遂げ
  実りを上げている頃、川内ダムの建設が決まった。
 ・ 昭和56年、32年間の野平開拓の歴史を閉じるにあたり、
  36戸の開拓魂を留め、碑を建立する。

冊子『廃村と過疎の風景(4)』を見ると、野平小学校の児童数は
昭和41年から同44年の間に大きく減少している。
 ・ S.41=66名、S.42=50名、S.43=32名、S.44=26名

「ダム便覧」Webには、川内ダム建設に伴う集落移転の方法について、
次のように記されている。
 ・ 川内町の11戸は 水没者のため損失補償で移転
 ・ 川内町の8戸は 過疎地域集落再編事業で移転
 ・ 佐井村の17戸は 少数残存者損失補償で移転

野平集落は、川内町(現むつ市)と佐井村にまたがっているが、
学校が川内町立だったため、「廃村千選」での所在地は川内町としている。
ただし、「地理院地図」Webで調べた学校跡の所在地は、佐井村長後となっている。

 画像1 野平・留魂の碑(その1)
      雪の中、黒っぽく見えるが、近づくと黒い碑ではなかった。

 画像2 野平・留魂の碑(その2)
      碑文を読もうとすると、案外白みがかった碑だった。

 画像3 野平・留魂の碑(その3)
      裏面には、世帯主36名の名前と、
      川内町長、佐井村長の名前が刻まれていた。

 (2017年2月13日(月)午前9時40分頃)
7 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年03月>
日 月 火 水 木 金 土
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

過去の日記

2026年
2025年
2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
2019年
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年
2007年
2006年
2005年
2004年