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2026年09月20日01:12

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今ごろ山下耕作監督が全学連崩れだったと知っても、それと彼の映画とは何の関係もないと考えます。山下耕作監督「大喧嘩(おおでいり)」(1964)。

山下耕作監督の名前を覚えたのは、三島由紀夫が「映画芸術」誌に「博奕打ち 総長賭博」を褒める文章を記載して以降です。加藤泰や深作欣二監督作を追いかけ始めていた僕は、なんとか三番館で「総長賭博」を見、前後して「関の彌太ッぺ」(1963)も見ました。そしてオーソドックスな“泣かせ”に、けっこう感心した記憶があります。

とはいえ今回初見となった「大喧嘩」については、筋を外した新興勢力のヤクザ赤岩の亀蔵(遠藤達雄)が、古くから生糸市場を扱っている勝場の藤兵衛(加藤嘉)の縄張りを奪おうとする展開で、ちょうど3年ほど修業に出ていた榛名の秀次郎(大川橋蔵)が帰郷、筋を通して組を守ろうとする展開でした。

こういう“筋を通す”というヤクザの本懐を描かせると、山下耕作はなかなかの味を見せると僕は感じています。しかしながら、今回は、藤兵衛親分の娘おかよ(十朱幸代)との仲を、親分も認める関係なのに、横恋慕してヤクザの足を洗い目明しとなった元同僚が力ずくでおかよを女房にしていたという展開でした。

さらに、2つの組がぶつかりそうな町に、元武士の三鬼剛太郎(丹波哲郎)が現れ、三船三十郎のように“二大勢力をぶつけさせたら、新しい体制が生まれる”と、画策する展開まで付いていました。脚本が、村尾昭・鈴木則文・中島貞夫の共作ですが、どうも三者それぞれの“思惑”が、きちんと整理されていなくて見ていて苦しいのです。

さらには金子信雄演じる上州屋仁右衛門が、三鬼の企みに乗り漁夫の利を得ようとするあたりも、どう考えても無理がある。とりあえず大喧嘩の嵐が街を襲い、累々たる屍が街路を埋め尽くすあたり、中島貞夫監督が自著に記していたように“いかなる戦死もすへで犬死だ”という論理を映像化していると言えなくもないのですが、黒澤の「用心棒」には及ばないわな。

そして僕はこういう“間尺の合わない構成”を見せられると、自分勝手に好みで責任を分割し、高田宏治氏が“お前の映画はエンターテイメントではなくアミューズメントだ”と喝破した鈴木則文氏の脚本参加に、今回の責任をおっかぶせてしまいたいのでした。←当たらずと言えども…、でしょ?

とりあえず義理と人情のヤクザ劇に、生半可な色恋沙汰を持ち込んではいけないよ、と僕は思います。自分が色恋に夢中だった1960年代後半なら、もっと見方は違ったかもね。しかし僕は今、あと半年で80歳になる年齢であり、たまたま息子から“御学友の赤木志郎が死んだよ”と教えられ、よど号事件で北朝鮮に渡った“知り合い”の逝去を悼んでいます。

山下耕作の“全学連崩れ”がどういう内容なのか、僕には分かりません。しかし京都大学で大島渚の2学年先輩に当たる山下耕作が、その学生運動経験を岡田茂に買われて東映入社から監督にまでなっていったという部分には、少し感じる部分があります。少なくとも映画界は“野人”を求めていた時代だったのだということは言える。

それにしても「博奕打ち 総長賭博」や「博奕打ち 流れ者」という、“きちんとした”秀作を送り出している山下耕作監督ですが、その“きちん”感が薄れてしまうと、映画そのものがグダグダになってしまうのですね。活動屋たちがこぞって“面白さ”を追求していた時代だからこそ、その“追求”の姿勢が問われるのだと、結論づけておきたいと思います。
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