今更2012年の映画を見て、ジャック・オーティアールを貶める必要もないわけですが、たまたまフレッド・グリヴォワ監督に着目していたところ、オーディアールのこの「君と歩く世界」タイトル場面を監督したと知り、未見のオーディアール作品を見てみるかという気持ちになったしだいです。
物語は、5歳の幼い息子サムを世話せざるを得なくなったアラン(マティアス・スーナールツ)が、母国ベルギーを離れ、姉アンナ(コリンヌ・マシエロ)夫婦が住む南仏アンティーブへとやってくるところから始まります。アランはアンディーブで警備員の仕事に就き、シャチの調教師をしているステファニー(マリオン・コティヤール)と出遭います。
ところがステファニーはシャチに両足を食いちぎられるという事故に遭い、アランとの仲が急速に親密になるのでした。この両足が無くなるという特殊撮影が、そもそも僕には“嫌味”でした。いかなるCGIを使用しても、マリオン・コティアールの足が無いシーンをすんなりと受け入れられないのです。
同時に、アランが金を稼ぐために路上格闘技(賭けファイト)にのめり込み、殴られて奥歯をぶっ飛ばされるというワンカットも僕には不要でした。勘弁しろよ、と思う。そんな“見てくれ”になんの意味があるのでしょうか? そんな小手先の“美術”を見せたくて、フレッド・グリヴォワ監督にメイン・タイトルを作らせたのか?
だから、サム少年が凍った池にハマり、「オーメン」(「2」か「3」かも)のように氷の下に彼の姿を見つけたとしても、僕には「オーメン」からの剽窃にしか思えないのでした。つまり「ディーパンの闘い」で僕に突きつけたあの世界観はどこへ行った? あるいは「エミリア・ペレス」(2024)の“二役”に驚嘆した、あの感覚はどこへ行った?
つまり「エミリア・ペレス」だって、“ひとつの冗談”なのかもしれませんが、僕にとっては“ドキュ〜ン”と感じる超弩級の“仕掛け”でした。その前に「ディーパンの闘い」の明快な論理は、僕が進もうとする道を明快にサーチライトで照らし出してくれた訳です。今回のギミックは、あまりにも通俗的でとてもオーディアール作品だとは思えません。
ま、それは冒頭のタイトルシーンが、何ということはない“美しさ”で素通りしてしまったことに原因があるのかもしれません。オーディアールという異才に迫り、それを凌ぐかもしれないフレッド・グリヴォワ監督という才能が、あの程度の“まとまり”を持った美学で終わってしまってはいけないのだと、僕は思う。
いまさら12年前の作品にケチを付けて、ジャック・オーディアールを貶めるなんて、下衆のすることだと言われても仕方ないのですが、僕はなんとしても“この程度の通俗性”にまとめてしまったオーディアールの手法に対しては、こんな程度の才能ではないはずだと、はっきりと言い切っておきたいのでした。
なお原題の「De rouille et d'os」は英語だと「Rust and Bone」で“錆と骨”です。どんな才能でも骨まで錆びることがあるという意味? あるいは錆が出てきたら骨も意味がなくなるってこと? そのあたり、詳しい方ご教授ください。
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