1961年に公開されたとき、学校から団体鑑賞で映画館へ行きました。年に1本か2本、そんな課外授業があった時代です。「黄色いカラス」や「喜びも悲しみも幾歳月」など。小学校のときは、16ミリ映写機を持ち込んで講堂で上映会をしたこともあります。16ミリで憶えているのは「にあんちゃん」ですね。
そんな団体鑑賞が無くなったのは、市川崑の「東京オリンピック」のせいではなかったか? つまり、政府が期待した国威発揚という内容ではなく、世界各国の競技への参加という世界平和を中心に据えた映画でしたから。明確に現職大臣が、市川崑の演出方針に苦言を呈したのでした。
でも1961年の10月に公開したこの「世界大戦争」は、団体鑑賞で見ました。そうじゃなかったら黒澤明以外の邦画なんか、僕が見ているわけがない。そして14歳と6か月だった僕は、世界戦争に巻き込まれて死んでいく他なかった市民たちの人生を見せられ、大きな憤りを感じたのでした。だって理屈に合わんのですから。
実は還暦を迎えたころ、この映画を35ミリプリントで見直す機会に恵まれました。そして第二班(つまり特撮と群衆シーン部分)のスタッフだった中野昭慶監督とお話する機会を得ました。あのころ特撮班は、群衆シーンなども担当していたというお話は興味深かった。だから保育園に娘を預けたままの母親(中北千枝子)が道路に倒れるシーンも第二班撮影。
14歳と6か月の僕は、ごく普通の庶民たちがある日突然世界の終わりを体験するという展開に驚きました。しかし僕の父親にしてみたら、第二次世界大戦という現実体験があったわけです。その実体験と、この「世界大戦争」のフィクション部分とを、どのように受け止めたんでしょうね。僕は理屈に合わない悲劇に怒りまくるだけでした。
そしてこの映画は、もしかしたら実際に起こるかもしれない世界終末戦争というものを描き、身内の人間が出征によって帰らぬ人となる事態を、殆どの人々の共通体験として共有していたはずなのです。その胸の内を、フランキー堺の言葉だけで終わらせていいものかどうか? 病身の首相(山村聰)は、最後まで“核兵器は使用するな”と説いて回る。
そんな110分のドラマを今見直すと、やはり今や戦争体験が完全に風化しているように思えました。多くの人間が都心ではなく田舎への脱出を試み、戻れる田舎のないフランキー堺の一家は、“お正月みたいな”ごちそうを食べながら、世界の最後を待ち受けるのです。この“庶民の叫び”は、とことん現実的ではないな。
とりあえず東宝が得意とするSFXを駆使し、核戦争の恐怖に対する一石を投じた映画だったということで記憶しておきましょう。東宝としては“芸術祭参加作品”としていますから、けっこう本気だったんだと思います。けっこう本気で、そこそこ本気でも、それで映画がいつまで生きのびられるか? 僕にはこの映画は、もう死んでしまいました。
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