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2021年05月08日06:11

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風林火山伝 第38話 信玄再び西へ

岐阜城の天守はすべて焼け落ち、金華山の山頂は焼け野原となっていた。そこへ武田信玄が陣を引き、重臣を集め軍議を元亀4年(1573年)2月28日に開いたのであった。信玄は明智光秀よりの使者の知らせで、織田信長はまだ生きており、どうやら長良川を下り伊勢の長島方面へ落ち延び、長島にて軍の建て直しを行い再戦の機会をうかがっている動きをつかんでいた。

信玄はまずは、明智光秀、武田軍に合力した長島一向宗にて織田軍を見張り、また、現在、秀吉を追い長良川上流に進軍している武田信繁、野田城にいる武田勝頼を合流させ、勝頼に信長討伐の総大将に据えることを考えていた。

一方、京の足利義昭には、まずは信玄自身上洛の後、信長と決戦を挑む考えを書状で伝え、義昭からも早く信玄に会いたいとの返事をもらっていた。

ほとんどの家臣は信玄の考えに同意したが、高坂弾正は伊勢長島にいる織田軍の兵力
は秀吉の軍を合わせ2万以上の兵に膨れ上がっており、すぐさま、信長との決戦は控え、
信玄が京に上洛したのち、御所の正親町天皇の信長討伐の勅命をもって、信玄自ら総大将となり、浅井長政、朝倉義景と合力し、信長と決戦を望んではどうかと進言した。

しかし、信玄は正親町天皇は信長を好意に思っており、正親町天皇から信長討伐の勅命を得るのは難しいのではないかと弾正の進言については却下した。そのうえ、浅井、朝倉が信長討伐に兵を差し向けるかどうか疑問視していた、

一方、伊勢長島で勢力を盛り返しつつある信長は羽柴軍、柴田軍と合流し、兵力を再集結させ、信玄への決戦に備えるとともに、義昭へ書状を送ったであった。その書状は信玄との和議であり、和議の条件として、義昭に対する殿中掟の撤回、京都所司代を廃止、京から織田の軍を引き上げ、人質として3男織田信孝を義昭のもとに送る。その見返りとして、織田家の存続として、伊勢、伊賀、尾張、美濃の領地の安堵、越後との塩の取引の斡旋であった。信長の腹積もりはすでに、尾張、美濃の領地は武田軍のものであり2国の領地の安堵は難しいとしても、越後との塩の取引の斡旋は今後の上杉謙信との同盟のきっかけとしてはかかせないものであった。

信玄は翌3月1日 信繁と岐阜城で対面し、信繁が伊勢長島に陣取る信長を封じ込めるための出陣を見送り、また勝頼が小山田信茂が守る尾張の清須城まで進軍している知らせを聞き、弾正の兵3千を残し、岐阜城の天守の再建を指示し、京を目指し、再び西に進軍したのであった。

                                     つづく
  

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