mixiユーザー(id:7656020)

2019年10月27日16:39

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バレンボイムのベートーヴェンあるいはフルトヴェングラーから受け継がなかったもの

 これは今日mixiのつぶやきに書いたものを日記に記録したものです。もう少し短くまとまるかなと思いつぶやきで書き始めたものの、ずるずると長くなっていったので最初から日記で書き始めたほうがよかったと反省しきりです(汗)
 ですのでいただいたコメントに対するコメントもこの日記のコメント欄に移しておきますが、互いに一続きのコメントを書いている最中に相手の返信が割り込んだと思われる部分もありましたので、コメントした時間も記載した上でこういう形だったのではと思われる続き方に直していることを言い添えておきます。


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バレンボイムのワーグナーを聴いていると、彼がベートーヴェンの音楽を演奏する時にもワーグナーの演奏法と基本的には同じ方法論を適用していて、それがベートーヴェンの作品の特色を弱めていることに嫌でも気づかされる。特にスフォルツァンドを軽視し音楽を滑らかに歌いつなぐことを優先させる点にそれが端的に出ている。

久石譲のベートーヴェンとはまさに対極に位置するもので、少なくとも僕が彼のベートーヴェンに説得力を感じにくい最も直接的な原因はここにあるといっていいように思う。
彼には常にフルトヴェングラーからの影響を論じられることがつきまとい、確かにその演奏傾向にはフルトヴェングラーとの共通点が多々あるが、それは少なくとも戦時中のフルトヴェングラーではなく最晩年の、丸山眞男がのびたうどんに例えたという演奏スタイルにこそ感じられるものである。

おそらくそれは、バレンボイムが対面したフルトヴェングラーが最晩年の彼だったことに由来することであり、戦時中の体験による消耗を顕わにしつつも一面であれほどの緊張や激しさからは解放されたその姿が、戦争をくぐりぬけた周囲のあらゆる人々の姿を代表するものとしてバレンボイムの深層に焼き付けられたのではと思う。

バレンボイムのベートーヴェンにはフルトヴェングラーというよりもむしろワルター的といいたくなるような柔和さめいたものさえ漂っていて、それがよけいにベートーヴェンからの乖離も感じさせるのだが、それがなければ彼はイスラエルやアラブ諸国の若者たちから成るオーケストラの代表的なレパートリーにしなかっただろう。

おそらくバレンボイムはフルトヴェングラーが自らの戦時中の演奏の録音が世に出ることを裁判を起こしてでも差し止めようとした気持ちを察していたからこそ、戦時中のよりデモーニッシュな演奏スタイルを受け継がなかったのではないかと思う。その意味において、彼のベートーヴェンへの接し方には必然性があり一貫している。

だから戦時中のフルトヴェングラーの演奏の過激なまでの迫力に惹かれる我が国のファンが、バレンボイムをフルトヴェングラーの不出来なコピーのように扱うのはある意味もっともであると同時に、それは我々日本人が戦時中の自分たちを根本的には否定してこなかったことを反映しているようにも思えてしまう。

我が国のクラシックファンが、終戦とともにドイツを中心とするヨーロッパにおいて巨匠時代が終焉を迎え、入れ替わりに現代音楽のムーブメントが始まった現象に共感はおろか理解すら示そうとしない傾向が特に強いことと、おそらくこれは大いに関係があるのではないだろうか。

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