お気に入りのスナップ「福島のシンデレラ」である。
今から数年前、福島で仲間たちとスナップをしてた頃、新幹線の終電を逃し友人達と夜明かしをしてた記憶がある。
その時撮った路地裏のスナックの階段だ。
12時の閉店のシンデレラだ。
カメラはペンのEP-2 レンズは純正のパンケーキだ。
あの頃、僕はその当時ですら古かったデジカメのデジタルノイズにハマっていた。
ISOを1600以上上げるととても官能的なデジタルノイズが出る。
多分、カメラ雑誌で誰かがやってたのを真似たのだ。
それは僕にとっては、目に見えない放射線のメタファーだった。
そしてそのデジタルノイズ塗れの写真は白黒変換すると恰もフィルムの荒い粒状性のようになる事を発見した。
当時はまだ、僕はプリントではフィルムには敵わないと感じていて、いかに当時のニコン、キャノンの最上級モデルでもフィルムプリントの立体感は出ないと感じていた。
僕は子供の頃からフィルム写真を撮り続け、かつライカの写真をずっとみていたし、当時フィルムライカも撮っていたからだ。
ところが、このデジタルノイズのモノクロ変換にはパンフォーカスにも関わらず奇妙な立体感を感じた。
フィルムとはまた違うんだけど・・・妙に生々しい。
このデジタルノイズによる立体感はペンのEP-2までだ。それ以降、EP-3からは好感度性能がぐんと高まる。
そう、僕はノイズやバグで自分の作品の作風を作っている。そういう意味では僕の写真も道具に依存しているのかも知れない。
そんな長年の相棒もついに先日、雪の秋田を撮ってて壊れてしまった。
最初は「またいつものバグかあ〜」くらいしか捉えていなかった。
デジカメっていうのは中身のスペックは進化しているんだけど、基本的に寒冷地仕様には出来てない。
だから、冬の東北ではかなりの確率でバグる。
だいたいにして防塵防滴を売りにしてるカメラですら、カタログスペックで−5℃って・・・冬の東北をなめてんのか?とか思う。
今回はそういう類ではないらしい。
たまに電源が入るものの、基本的に無反応だ。
それじゃあスナップカメラとしてはダメだ。
それでもよくもったと思う。
基本的に震災以後ずっと使い続けていた。
僕はフィルムライカ以外は被災地はデジタルのペンとRICOHのGRで撮り続けた。
色々試したし、またプロやアマチュア色んな人達に色々勧められた。
また、ゴーストライターじゃないけど、ちょっと名の知れた写真家の人にマミヤの二眼レフで撮ってくれとか言われカメラを贈られた事もある。
当然、そんなもんはシカトしてマミヤはまんまと頂いた。
ふざけてる!
それでもプロか?
結果としてしっくりいくのがデジタルではペン、GRだったというわけだ。
なぜ、ペンやGRがよかったのか?というとやはりカメラの性格が被災地や僕に合ってたのだとは思うけど・・・高級一眼レフで撮るのも憚れたし、何と無く決め事として被災地は3.11以前に市場に存在したカメラで撮りたかったのだ。
帰宅困難区域の遠吠え
これもペンの写真だ。
全ての写真は逆光写真である。
これは僕の自論ではあるが、写真とは被写体の輝きに相対しそれをとらえるものと考えているので、僕の中ではとても整合性がある。
誰もいない帰宅困難の静寂を切り裂くかのように放たれる生命の咆哮・・・それに真正面から対峙するのだ。
元は飼い犬だったのだろう。
懐っこく甘えるような、あるいは不審なものに怯えるような半野生の叫び。
それは放たれるエネルギーに対する逆・・・僕の心のセンサーに突き刺さる。
被写体としての生命が最も「映える」のは「逆光」であり、生命が最も「生える」のが「逆境」だと思う。
僕はそういう被写体に凄く惹かれる。
被災地や福島、あるいは東北の吹雪を嬉々として撮りに行くのはそういう僕の性向だ。
上手く表現は出来ないのだけど、芸術というのは立ち向かう事だと思うのだ。
僕の写真はよくアンダートーンだと言われる。
だけど僕はそうは捉えてなくって、光のトップノートに対して適正露出で撮っている。
それはペンやGRのラチチュードの狭さからくるのかも知れないけど・・・白飛びするくらいなら輝きをキッチリと捉え、あとは黒く潰れても構わない。
生命の輝きを捉えたい!
その刹那の為に僕は出かけてゆく。
そう、写真表現が他の表現と違うのはそこに行かなきゃ出来ないという点だ。
色んな考え方があるから別に人の事はいいのだけど、モノや道具というのは使ってなんぼだと思うし、モノを大事にするという事は大事に保管する事ではないと思う。
無意味に手荒く扱う必要もないが、時にピーキーに攻めてやるのも道具のポテンシャルを引き出せる。
そしてそうやって苦楽を共にするからこそ、相棒感が生まれるんだと思う。
死んで残すモノは集めたモノではなく、与えたものである。
それは僕が震災で学んだ事だ。
道具を集めたって仕方ない。同様に道具を誇っても意味がないし、disっても野暮だ。
道具とは道具に過ぎない、即ち使う人間次第だからだ。
その道具でいかに、人々に何かしらポジティブな影響を与えるのか?
そして道具というのは苦楽を共にしてはじめて相棒となる。
修理してまだ使おうかなぁ〜とも考えてもみるが、まあもうそろそろいいかな
新しい相棒を探す事とする。
もう一度言う。
死んで残すものは集めたものではなく、与えたものだ。
さよならペン
今迄ありがとう
僕は君にたくさんの思い出をもらった。
あなたが死んで残してくれたものだ。
あなたが与えてくれたものだ。
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