最近、自分の詩に対する解釈に接して驚いたことがあった。感想や批評にはたいへん感謝していることを前提にだが、思ったことを書いてみたい。
もし一本の木と
一本の人間が並んで立っていたら
どちらが私か 当てて下さい
たくさんほほえんでいるほうが私です
夕暮れまではここにいます
(「陽の下 地の上」全)
私が驚いたのは、「ほほえんでいる」のは人間に決まっているので(一般的には、動物でも人間しか笑わないと言われており、植物はさらに笑わない、という特性から)、「どちらが私か 当ててください」への回答として人間を挙げた人が多いことだ。というより、「当ててください」と言っていること自体が無視されていて、人間の形をしたほうが語っていると読まれているらしかった。
しかし詩の場合、何にでもなれるのがよいところで、私は木であるかもしれないと自分では思っていた。木はもちろん葉をざわめかせたり光を反射したりして笑っている。そしてどちらかといえば木のほうがたくさんほほえんでいるかもしれないが、人間も負けじとほほえむこともできる、というのが私の発想であった。木と並びあって、ほほえみの量を競うことができるという幸せについて語りたかったのかもしれない。
最終行の解釈として、夕暮れまでいて家に帰るのは人間だ、というご意見を読んでいてそこはそうとるのが普通かもしれないと反省した。私は、自分が木かもしれないし、人間かもしれないという童話風な設定なので、この夕暮れも象徴的に世界の暮れがたのつもりで書いた。人間にも木にも死は訪れるが、夕方までは地上にいるという気持ちだった。この一行は後から加えたものだが、やや感傷的で蛇足かもしれない。
タイトルも説明的との感想があり、その通りだと思った。人間に対して「一本」はよくないとの意見もあったが、私は敢えてそう書いた。単位で不公平はよくないし、人間も「一本」と呼ばれてもよい直立的存在でもあるので。
自分の詩の種明かしをしているようで潔くないが、一番言いたかったことは、笑うのは人間だから、とか、言葉を出しているのは人間だから、と詩の中の「わたし」を最初から人間の形をしたものであるとして読み始められた場合、この詩の問いは最初から消えてしまうということだ。木でも人間でもいいので、たくさんほほえんでいる者になりたかった私だが、それ以前に「わたし」が最初から木として出場できないとなると、自分が詩人ではないからだと悲しくなるのだった。私の力量と言われればそれまでだが。褒められているのに悲しいというヘンな体験であった。短詩は難しいとまた思った。
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