J ガイルズ・バンドの堕ちた天使というナンバーである。
歌われている内容は学生時代の天使のようなヒロインがプレイボー○とかペントハウ○かなんかのヌード・グラビアかなんかに出ていてショックを受けるという実に他愛のないものであるが・・・軽快なホーンセクションいやシンセ?と粘っこいギター、オルガンが気持ちのいいロックナンバーである( ̄ー ̄)
6月9日ロックの日に因んで「堕ちた天使」という作品を作った。
ロック史上、最高傑作と言われるボブ・ディランのライク・ア・ローリング・ストーンにしてもそうなのだけど・・・ロックというのは「権威」の失墜がテーマになることが多い。
ところがそのプレステージ性というのが、どういう基準か?というと・・・これが面白いところで、例えばJ ガイルズの場合はこの歌い手の主観というか、青臭い主人公の男の妄想に過ぎないし・・・
ディランの場合は社会的な失墜、つまり世間一般の評価のように思わせながらも・・・
「どんな気がする( ̄ー ̄)?」
「転がる岩のような気分は?」と・・・それがいいとも、悪いとも断じていない。
ここがディランのディランたる所以なのだ。
「転がる岩には苔は生えない」という諺があるように生々流転し、変化し続けるローリング・ストーンは洋の東西を問わず、割といい意味で使われることが多い
僕が絵を描くのは主に震災ガレキであり・・・そこには僕なりの追悼の意はあるのだけれど・・・素材はやっぱりゴミである。
海からあと数キロ・・・こっち側の生活圏に近ければ僕はトングで拾い上げ・・・
ビニールに詰め仙台市のごみ集積場所に捨ててしまう。
被災地の写真だってそうで・・・
そこに意味性を持たせているのは、僕の主観に過ぎない。
そこに張り付く意味性やプレステージ性を脱臭して・・・物性だけ抜き出してみたい。
形質だけを追求する・・・
これがまた難しい・・・
どうやらものには理(ことわり)というものがあるらしい。
これが凄く厄介なんだけど、やはりその理にかなった美というのは生「理」的に気持ち良かったり、倫「理」的に正しい気がしてしまう。
既成概念を嫌うロックな魂にはこれが一番の障壁かもしれない。
ただ、理の森を抜けアンチを掲げるためには理(ことわり)を客観的に理解しなくてはならない。
それって結局、大っ嫌いな勉強だし権威主義の象徴のアカデミズムではないか|( ̄3 ̄)|
とは言うものの反権威主義を標榜しながらも道具に拘りをみせたり、手法に拘りをみせたり・・・
その道具を自分で作り出したり、手法を編み出したりしない限りそれはある種の権威のトレースだ。
あるいは拘らないという「無作為」という「作為」にしがみ付いてみたり・・・
人が何かを作ろうとする事自体が既に作為なのだ。
うーむ・・・
全くややこしい|( ̄3 ̄)|
ディランがノーベル賞授賞の際のあの煮え切らないアティテュードが全てを物語っていると思う。
ただ何となく最近わかったのは・・・意味性からの開放の先には物性の扉がある。
それを伝えたい。
エバーグリーンばかりがいいわけではない。
老いて、朽ちゆく或いは枯れゆく様だって愛おしい。
津波に被災した写真が美しく朽ちてゆく様・・・
別にそれは草叢のエロ本でも構わない。
なぜなら、それを物性で捉えると紙とインクになるからだ。
最近だいぶ片付いてはきた震災がれきは、生活の形見でありかつそれらは日常の廃棄物だ。
綺麗なものばかりではない。
エグいエロ本だってDVDだってある。
堕ちた天使を作っているのはガキの妄想に過ぎない。
僕はただ写真を撮り、そして絵を描く。
その「理」由は今のところ描きたいからだとしか言えない|( ̄3 ̄)|
魅力的な素材を見ると、そこに何らかの絵が見えてしまう。
そういう性質(たち)なのだ|( ̄3 ̄)|
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