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2016年10月01日16:39

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10月の詩は「向こう岸」&引用の話

10月になりました。であるからして10月の詩を。

先週、この詩に出てくる引用をめぐってちょっとふれたが、その続きを書いておきたい。

この引用部「愛とはお互い見つめあうことではなく/共に同じ方向を見つめることである」は、若い頃の私には異性どうしのことについて語られていると思えた。周囲もそう受け取っていたようだ。ただ、堀口大学訳『人間の土地』ではニュアンスが違う。その部分をコピーしておくと

「ぼくら以外のところにあって、しかもぼくらのあいだに共通のある目的によって、兄弟たちと結ばれるとき、ぼくらははじめて楽に息がつける。また経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと。ひと束ねの薪束の中に、いっしょに結ばれないかぎり、僚友はないわけだ。」。

ここでは「ぼくら以外のところにある」「共通の目的」を目指す者どうしの愛について語られているのだが、この有名なくだりは一人歩きして、恋愛や結婚の指標のように使われるようになった。愛には崇高な目指すべきものがあるべきで、お互いを「高める」ことが必要だ、と。私の学生時代は、政治の季節で、理想に燃える「活動家」たちは愛にも「規範」を与えたかったのだろう。しかし、私は男女の愛について考える時には、そうした言葉はカッコよすぎると思うのだった。好きな女性と見つめ合うことができ、時に笑いかけてもらえるということ以上に、この世に生まれてきたことの喜びや生きた証があるだろうか。同じ方向にある何かを一緒に見る姿は美しい。もちろんそこに喜びもあるだろう。しかし、それは人間が星を見るときの見方である。

オルフェウスは冥界から妻エウリュディケを取り戻して来たのに、最後の最後で振り返ってその顔を見ようとしたがために彼女を永遠に失った。『ギリシア・ローマ神話』の著者ブルフィンチはその場面をこう記している。「エウリュディケはまた死んでいきながらも、良人を責めることはできませんでした。自分を見たいばかりに早まったのを、どうしてとがめられましょう」。のちに彼が殺され黄泉の国に行ってからの後日談を著者は創作している。「オルペウスはもはやうっかりした一瞥のために罰を受けるようなことのないのがわかっているので、思いのままに彼女を眺めています」。ブルフィンチの優しさの出ている部分だと思う。

学生時代、もてない私は恋人もなく見つめあう女性もいなかったが、恋人もいて見詰め合うことも抱き合うこともできる人たちが星を仰ぎ見ることが愛だというのが嘘に思えた。室生犀星は文学生涯は嘘をつかない約束で終始してきたと言い、その最後にも嘘を交えてはならないと随筆集『女ひと』の一編にこう記している。年寄になった時、「無邪気に美人を見て己も生きていることに気づくのは、死を賑やかにするものであり、生きていることの礼儀であるといってよい」。見つめ合うのではなく見るだけでも幸せなのである。なぜ遠い星を見ていなければならないのか。星は時々みればよいのである。あまりに遠いので、人が歩くと遠いまま一緒に歩いてくれるのが不思議だが。人間どうしは一緒に歩くとぶつかったり離れたり、時に目が合って笑いあったりするのである。それがいいのだ。そしてごく稀にだが見つめ合ってしまうことだってある。

詩と関係のないこと(と私は思うが、それは読む人が決めることだ)を長々書いてしまった。

http://kamitelyric.web.fc2.com/month-poem-latest.html
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