上手く纏められるか・よくわからないけど・・・コントラストについて書く。
宮城県では震災から五年も経つのだが未だに5万人が仮設暮らしである・・・
当初、仮設というのは2年のはずだったが遅々として復興は進まない・・・
5万人というのが多いか少ないか?よくわからないだろうが・・・仮に宮城の人口が200万人だとするとおよそ100人に1人という計算になる・・・
当初、仮設暮らし2年、その後は復興住宅に移るという計画だった・・・
その原因とかに言及するつもりはない・・・ただ、僕のように地元に住んで、頻繁に被災地に行かなくとも何となくその歩みの遅さは感じると思う・・・
さて、ふとここで疑問生じる・・・
なぜ遅いと感じるのか?
明確なビジョンを抱き、5年後を予想していたわけではない・・・・
多分、これは日本中のみんなが感じてる事ではないか?
「遅い」・・・・はて?何に対して遅いのか?
D・ボウイが死んで日本中、ボウイ、ボウイと騒いでいるが・・・
ボウイというのはそんなにメジャーなアーティストではない。
偉大なアーティストではあるが・・・レッツダンス以外はどちらかと言えば、カルトヒーローではないのか・・・
数年前にビッテルのCMを見て・・・ニヤリとしたのはごく一部・・・
僕はマスプロダクトにこんなCM作ったなあ・・・と感心したものだ・・・
余談ではあるが僕は当時、このCMの書き割りを見せてもらった事がある。
この冷蔵庫にあるペットボトルの水の量は余生の象徴。
つまり、残った水を、もうこれしかないと捉えるのか?まだ、残っていると捉えるのか?ということを表現しているそうだ。
話は突然変わるが・・・今はコンデジの性能がいいからコンデジで星空が撮れる。
頑張ればスマフォでも撮れる・・・
撮れるのではあるが・・・ちょっとしたコツがいる・・・
それがコントラストである。
こういう写真を撮るには「闇」が必要だ
東京のど真ん中では撮れない・・・
星を輝かせるのは漆黒の闇だ。
今の俄かボウイブームの陰にはボウイの死・・・つまりボウイの喪失がある・・・落胆なのかもしれない・・・それがコントラストだ。
レッツ・ダンスの一発屋の死であれば、こんな事にはならない。
ボウイにはレッツ・ダンスに至る鮮やかなキャリアがある。
それが彼の存在感を輝かせていて、あまりボウイを知らない人でもその喪失により、その大きさを知る。
僕は「死」とは「生」の輪郭だと解釈している。
つまり遅いという落胆の陰には人間の漠然とした「希望」があるのだ・・・
仮設住宅の壁には「絆」であるとか・・・虹やら・・・花とかスマイルとか・・・
そんな絵や文字が刻まれてる・・・
それらはまさか5年もそのまま雨風に晒されるとは思っていなかっただろうが・・・
当初、5歳の子供ももはや10歳である・・・
色褪せた虹、掠れた花・・・
僕にはちょっと痛ましく感じられる。
幼稚と無邪気はちょっと違う・・・
僕は人間の漠然とした希望に見合う表現をしたいと思う・・・
「落胆」の陰には常に「希望」がある・・・
とかく落胆ばかりが語られるが、そこに期待や希望が必ずある。
というか寧ろそれが「在る」からこその哀しみであり、落胆なのである。
故に耐用年数の長い表現を常に追いかけている・・・
ボウイというのはユーモアセンスに優れた人ではあるが、非常にシリアスな表現をする。
ゆえに彼の残す作品は色褪せない。
エイドリアン・ブリューとボウイでプリティ・ピンク・ローズ
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