mixiユーザー(id:20556102)

2015年10月29日16:35

1298 view

「短歌人」の誌面より(88)

2015年10月号より。

頁繰るごとに近づく死はありぬ遺歌集を読む夏のいちにち   加藤隆枝

…せつない歌だ。遺歌集は、当人は無念にして、あるいは刊行する意思はなくして他界し、残された者たちが編んだ歌集である。制作年順に編まれている場合、その歌集を読み進みつつ、残りのページが少なくなってくると、ああ、もうすぐ…、と思ってしまう。今年の7月の短歌人東京歌会の研究会の僕のレポートで紹介した田中雅子さんの遺歌集『青いコスモス』が、ちょうどこのようなケースだった。この遺歌集の特に後半のあたりで、田中雅子さんは広い世界へ解き放たれようとしていることが察せられて、もっとこの先の歌を読みたかったのに…、と思った。ちなみに『青いコスモス』収録712首のラストの歌は、《風景に父母(ちちはは)を見て過ごしたる再びは来ぬ水辺の仕合わせ》。

袖無しをしばらく着ないわたくしの肩に触れずに風はゆくなり   大越 泉

…「着ない」と言い「触れず」と言いながら、いわばそれは見せ消ちで、袖無しを着た時に肩に触れてゆく風の感触が伝わる歌。男がノースリーブを着て悪いことはないが、やはりこれは女のひとの歌と思い、男の読者は仄かにエロティックな陶酔感を味わうことになる。今回の大越さんの一連は、パラソル、レイバンのサングラス、髪を結ぶなど、ジェンダーないしセクシュアリティにかかわる題材が散りばめられていて、作者の意匠通り(ということになるだろう)ヨロッと惹かれてしまった。

満開のつつじが赤い高原を知らないおばあさんと見ている   田平子

…この一首だけを読むと「知らないおばあさん」って誰? という疑問が残ってしまうだろう。一連の前の方の歌の続きとして味わうべき一首だ。一連6首の3首目は《今日会えば母はわたしを知らないと言うああもう忘れて下さったのだ》、4首目は《母の中にすでにわたしはいない人子という名前無くしたらしい》。そして、ラスト6首目にこの《満開の…》が来る。母にとってわれはもはや知らない人である。それなら、われにとってもこの眼前のお方は「知らないおばあさん」だ。そのひとと並んで、ひととき、きれいな初夏の高原を見ている。そうだ。ここに何の不足があろうか。かつてもしあわせであった。今もこのようにしてしあわせである…、という余韻が静かに伝わる。

通貨(ディナール)なし出迎え見えず夜の更けるオラン空港ギヤ入れ直す   井上孝太郎

…作者の井上さんは、何年かの間、「短歌人」に歌を出すのをお休みされていたそうだが、このところまた毎号の誌面で作品を読むことができるようになり、東京歌会でもたびたびご一緒するようになった。異色の作者で、資源・エネルギー問題ないしエコロジーをテーマとして、その理論をいわゆる途上国において実践的に試行し世界に貢献しようとしている行動派の研究者である。「来月の東京歌会の日は、残念ながらアフリカに行っている予定でして…」などと、ごく日常のことのように言われる。この歌も、そうした日々のひとコマだろう。「通貨」に「ディナール」と振られているが、ディナールはイスラム圏の通貨、「オラン」はアルジェリア第二の都市だそうだ。研究活動の一環としてオラン空港に降り立った。出迎えの者が来ているはずと思ったら、姿が見えない。手許にはこの地で通用する通貨の用意がない。しかも夜も更けようという時間だ。不慣れな単身の旅行者なら、もうこのへんでパニックになりそうなところ、もちろん作者は落ち着いている。落ち着いてはいるが、さあ、これは自力でなんとかしなければというモードに切り換えだ、とギヤを入れ直す。経験に裏打ちされた落ち着きを保ちながらも、やや緊張したモードへ入ってゆくさまが、よく伝わってくる歌だ。

デモにゆく電車の窓にデモにゆく人ではなくて「わたし」を映す   大平千賀

ゆるせぬものがあるうつくしさそれもまたまひるに翻る国旗のやうだ   柏木みどり

…国会前のデモや集会に参加したという歌が10月号に何首かあったが、その中で、たまたま同じページに掲載されていたこの2首に注目した。大平さんは、「デモ」というものが「われわれ」の中に「われ」を埋没させ、下手をするとそれを大いなる民衆の連帯であるかのように、ある種の陶酔感を伴って幻視させる力があることをよく知っているのだろう。たしかに今、わたしは「デモにゆく人」だが、電車の窓に映っているのはまるごとの「わたし」だ。今日、これからの時間、「わたし」であることを忘れまい、という思いが伝わる。そして、従来の組織動員ではなく、そのようなあまたの「わたし」が集まったことが、今年のあの一連の行動の新しさだったのだろう、とも思う。

柏木さんの上記の歌のひとつ前の歌は《シュプレヒコールのさなかひとときうつむいて蟬の腹を踏む靴を見てゐる》。そのようにして「わたし」であることを確認しつつ、そのうえで、《ゆるせぬものが…》と詠う。「ゆるせぬもの」、今年の場合はもちろん安保法案だが、そういうとんでもないものが出現したおかげで、「われわれ」はここに美しく連帯して立っているように感じる。が、それは外敵が攻めてきたゆえに国旗のもとに団結する国民の美しさを超えるものではないのではないか。上記の歌の次の歌(が一連のラストの歌だが)は、《わがうちにふかく流るる血脈はけだもの 国といふ物語》。深い思索に支えられた一連だ。60年安保の時、あるいはまた全共闘運動の時、ここまでの深さを湛えた短歌作品はあっただろうか、などということまで思ってしまった。

息切らせ外階段を駆けるとき空が一段ずつ降りてくる   太田青磁

…「卓上噴水」欄、「風のメロディ」20首の10首目。外階段は、時々短歌作品で使われるアイテムだが、「空が一段ずつ降りてくる」と詠まれた歌は初めてなのではないだろうか。空が降りてくるのだから、われは息を切らせて外階段を駆け上っているのである。実際には、例えば屋内の階段なら天井が一段ずつ…、というのは実感できるだろう。だが相手は空である。その空が、あたかも天井のようにわれの動きに呼応して降りてくる、というように感じられる。う〜む。若い! いいなあ。若い! (と無用に繰り返してしまった…)

あかときに覚めてきこゆる蟬声に宇宙の産声おもひ起こせり   春野りりん

…蟬を詠んだ歌は、季節柄、この10月号のあちこちにあったが、スケールの大きさで言えばこのりりんさんの一首が出色の作品、と思った。あかときにきこえる蟬の声は、おそらく蜩だろう。そのようにして宇宙が生まれた時にも同様の産声が聞こえたものだ…、とわれは思い起こす。普通は、宇宙の産声のようだとか、宇宙の産声を思わせる、ぐらいに言うところ、「おもひ起こせり」と断じてしまうのがりりんさんの摩訶不思議なところである。過日この日記でご紹介したりりんさんの歌集『ここからが空』には、《大宙(おほぞら)を漂ひゐたる日のありき痛点をもつたましひとして》という歌もあった。「宇宙の産声」はそこからさらに那由他のスケールで時空をさかのぼる。この大いなる幻視力というか幻聴力は何処から来るのか、僕のような読者には計り知れないところがあるように感じる。


【最近の日記】
11月号「短歌人」掲載歌
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947297476&owner_id=20556102
補遺2件
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947232689&owner_id=20556102
「棟方志功 萬鉄五郎に首ったけ」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947123744&owner_id=20556102
12 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年10月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031