2024年５月号より。
につぽんに一番おほい名前といふ田中実をひとりも知らぬ 花鳥 佰
…「ｎｏｍ」12首の１首目。「ｎｏｍ」はフランス語で「名前」。一番多い姓は…というような話はよく聞くが、姓と名の組み合わせで一番多いのは「田中実」さんなのだという。何処から引いたデータなのかわからないが、なるほどそういう頻度調査もあるのか、おもしろい！ ととりあえず読者をおもしろがらせたうえで、さらにひとひねりを加えて、それでも私の知り合いに「田中実」さんはひとりもいないんだよね、と言ったのが作者のワザだろう。
無をおもふときにはすでに無はあらずみづからの手をむすんでひらく 三井ゆき
…合掌している場面、あるいは坐禅だろうか。「無」になろう…と思うている限りそれは「無」ではないわけで、やはり「無」にはなれなかったなあ、とわが手を結んでは開いている。精神の鍛練の場面と読んでもよいのだろうが、そんなに真剣な話ではなく、ユーモラスに詠まれている一首、と受け取った。〈合掌と瞑目をして三秒は無といふものになれた気がする〉（大越 泉 「短歌人」2024.2）という歌もあった。あるいはこの泉さんの歌への返歌だろうか。
君が代のサビがいづこか関せざる男子生徒一人はたと倒れつ 萩島 篤
…君が代の歌のサビは何処か、などとおよそ一般人の考えぬことを言い出しながら、一人の男子生徒が倒れてしまったよ、と詠み収められる。おそらく学校の卒業式か入学式で、国歌斉唱の場面だろう。その歌に何の関心も抱かぬ生徒が、緊張のあまりだろうか、はたと倒れてしまった。国歌斉唱による愛国心の涵養などと大真面目に考えている向きへの皮肉として、あるいはひそかな反抗として彼は倒れたのだ、とは言っていないが何かそうした読後感をもたらす一首だ。
茹で卵ことり音してころがりぬ 死までの時間笑うごとくに �睫敲源�
…卵というのは思想的な食物で、いかにも人間はこのようにして生命を殺しているのだ、と思わせるところがある。無精卵ならよかろう、などというのは浅薄な理屈だ。それに、卵を産むメスは生かされ利用されるが、オスはヒナの段階で即殺処分だったのだろう、などと考えるといよいよ茹で卵をいただく手が止まってしまう。〈今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅〉（小中英之）という歌が想起される。人間はそのように詠むが卵はね…、というイロニーが滲む。
善き人の弘井何某ゐるとして悪しき弘井何某は無論 弘井文子
…作者は己れを「弘井何某」と客観視しているのがおもしろい。想起されるのは親鸞上人の説かれた「善人なほもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」だろう。時にはわれも善人かと思うこともないではないが、無論、ベースにあるのはわれは悪人なりという自覚だ。なぜならわれは人間という存在形態を負ってしまったからだ。クリスチャンならこれを「原罪」と言うのだろう。昨日の記事でご紹介した「汝の大いなる罪」である。
樹木へと歩みを進めゆくときの気後れに似たためらひひとつ 冨樫由美子
…上記の歌に続けてこの一首を読むと、「冨樫何某」の詠める歌かと思われてくる。樹木には善も悪もない。しかるにこちらはそうはゆかない。そのようなわれが樹木へ近づいてゆく時、平穏ではいられない、と詠まれているのだろう。樹木と対等な存在として相対したいのだが、そのようなことがわれに許されているか？ と自問すると「気後れに似たためらひ」が生じてしまう。今、東京や横浜で、再開発と称してあちこちで樹木が伐り倒されているが、人間はそこまで思い上がってしまったのか、というようなこともあわせて考えさせられる。
【最近の日記】
バッハ：「おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け」（カール・リヒター 1977年）
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トークイベント『キマイラ文語』を読む会の記録
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針谷哲純さんからの返信
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