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2015年10月06日18:46

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机の上に葉っぱ

 本当になにをしているんだろうねわたしはここで
 図鑑片手に
 机の上に落葉なんか並べて
 さ    (中上哲夫「鳥の巣について」…詩集『アイオワ冬物語』所収)

少し前のメールに「私の机は葉っぱでいっぱいです」みたいなことを書いたら、私も同じことを昔した、この詩を見よ、とあったのが上記。これを機に同詩集全体を読んだら、他の詩ではアメリカ大陸は「樫の大陸」で約60種もあり、大きく分けて赤い樫と白い樫がある、と娘に語っているのもあった。「その夜、わたしはずうっと枯葉の匂いがした」とか「わたしの魂は森のなかをさまよっていた」などのタイトルもある。そういう時期というのがあるのだろうか。彼は例の世界中の詩人が呼ばれる企画で米・アイオワに留学した時、しゃべるのが苦手だったのでよけいに鳥や植物を眺めていたらしい。書かれた年から逆算すると、40歳くらいだろう。私は67歳でこんなことをしている。

今日はふだん行かない団地内の「市民の森」(昔、死体が放置されたこともある「死人の森」である)にドングリを捜しに行ってきた(写真)。うっそうと茂っていてドングリも豊富である。それらの枝や葉っぱを持ち帰ると、また机は汚れ、時間がたつと緑は乾いてカサカサになる。自然の中に生きていたものが、本体から切り離されれば時とともに死んでいくのは当然のことだ。

机の上に乱脈にたまった葉っぱを見ながら、こんなふうにしか世界とつながれないんだなぁと一瞬思う。他のいろいろなものが、こうした「机の上の葉っぱ」なのではないかと。キーボードとPC画面の間に置かれた不思議なもの。PC画面からは友人達や、世界のニュースにつながっていて、他方キーボードには自分の心が動いたことがカタカタと打ち込まれる。それらはつながって生命のようなものを形作っているのだと信じられているが、死んでいく断片のようなものかもしれない。今日はみずみずしいものだが、明日には乾燥した命のないものとなっていくのだろう。生命からは常に剥がれ落ちて行くものがあるのだから別に不思議はないが。

私はけっこうその、ゴミみたいな葉っぱたちが気に入っている。きれい好きのカミさんもこれについては何も言わない。役に立たないのに捨てられない詩の破片くらいに思っているのかもしれない。とりわけドングリなど付いていれば、彼女は栽培しているくらい好きなので、孫がそこらに寝っころがっているくらいにしか思わないのである。
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