手塚富雄訳のリルケ『ドゥイノの悲歌』第一の悲歌で、もしも急に天使に抱きしめられるようなことがあれば、焼かれて滅びるだろう、という箇所の続きは次のように訳されている。
「なぜなら美は/怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれがかろうじてそれに堪え、嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを/とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい。」
この部分が古井由吉の「ドゥイノ・エレギー訳文1」では次のようになっている。
「美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを賞賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りでのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。」
ここには重大な差異がある。美は人間を打ち砕くのか、打ち砕くことさえせずに無視するのか。私は長いこと人間は美によって微塵に砕かれるものと解釈していた。気になったので他の訳と原書のその部分を対照してみたが(煩雑になるので略。興味のある方はコメント欄参照)、どうやら古井訳が正確でもあり、ニュアンスに富んでいると思えてきた。
そうなると、この部分の恐ろしさとは、人間が美によって焼き尽くされるといった悲劇的でカッコよいものではなく、滅ぼされるにも値しないという意味になる。そして我々が「美」などと口ずさんでいられるのも、「ここまではまだ堪えられる」範囲で、でしかない。天使がおそろしいなどと呟けるのは、はるか彼方まで行けたとしての話なのだ。
小説家の手すさびくらいに気軽に考えていた古井訳が、気をゆるせないものに変貌しつつある。
ログインしてコメントを確認・投稿する