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2008年02月01日00:14

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続きのお話3 第2章

 第2章 月明りの平原



 河を渡り終えたリアの目の前に広がっていたのは、ゆるやかにうねる平原だった。
 人間の目には黒々とした大地としか見えないはずだった。だが傾いた月や星々の光に満ちた銀色の夜空の下、リアの目には全てが見て取れた。河岸近くの石の河原。低い土手の手前の芦原。そして土手を登ると荒い群草に覆われた荒野がゆるくうねりながら続いていた。人々が戻り始めた集落は地平線の彼方だった。
 この地に辿りつき河を渡ったあの夜以来、久しぶりに見た光景だった。激しい渇きにもかかわらず、リアは一瞬足を止めた。

 いつかは地平線の彼方にまで力が届くようになるの?
 恐ろしい予感が悪寒となって少女の身をも震わせた。

 すると虚空が裂けたような奇妙な感触とともに、新たな気配が現れ人間の気配に重なった。
 森の乙女の妖気よりずっと強く、しかも異質なものだった。

 格が違いすぎる相手だとの内なる警報は凄まじかった。
 だが、渇きの激しさも後戻りなど許さぬ凄まじさだった。

 引きずられるように丘を登りきったとたん、一陣の風が下からどっと吹き上げた。思わず目を閉じたあと、リアはおそるおそる目を開いた。

 最初は眼下に見えたものがわからなかった。風の余波に渦巻く純白の流れが。
 ゆるやかにほどけて初めてわかった。それは身の丈ほどもある雪白の髪だった。

 浮力を失くした髪の渦からもつれた人影が浮かび上がった。
 黒衣の乙女の姿をした者が荒野に膝まづき、旅姿の男をかき抱いていた。長い袖が黒鳥の翼のように地に広がっていた。

 抜けるような肌の白は髪と区別がつかなかった。
 かるく目を閉じた卵型の顔が膝を落とした旅人の喉元に沈んでいた。

 そのまぶたがゆっくり開いて、大きな目がリアを見上げた。
 清水を湛えた深淵のような、碧く深い瞳だった。
 リアの体は畏怖にすくんだ。

 上古の乙女よりもはるかに長い時を経た者だと悟った。
 人間だった者ではない。リアの直感がそう告げた。

 黒衣の乙女が面をあげた。雪白のその顔の口元に、赤い小さな滴が光った。
 乙女は男の体を地に横たえて立ち上がり、リアを見つめたまま数歩退いた。

 ほんの小さな傷からの微かな匂いにすぎなかった。
 だが限界に達した渇きは荒れ狂い、畏怖さえも打ち破った。
 ぎりぎりでせき止めていたものがついに決壊し、濁流と化した赤い欲望がリアの意識を一気に呑み込んだ。



 青い目からあふれる焼けつくような涙が吸い尽くされた旅人の骸を霞ませた。渇きに耐えられぬ我が身のあさましさが容赦なく心を苛んだ。

 しかも自分は憐れみを受けてしまった。人外の妖魔にさえ。
 人間の魂と無縁のはずの古えの吸血鬼にまで憐れまれた上に、その眼前で狂態をさらしてしまった。
 あまりにもみじめだった。こんな思いは想像もできなかった。ずたずたの魂に口を開けた恥辱ゆえの裂傷が血を吹いた。


 すると冷たいものが頬に触れ、うつむいた顔を上向かせた。
 雪のような指だった。
 深い碧い瞳が、不思議に静かなまなざしがリアを捉えた。

「それがおまえの本来の瞳、光を帯びた空の青。いずれ出会うと思っていたわ」

 低い声がささやいた。

「なぜ限界まで渇きに身をさらすの? 魂をすり切らせて耐えようとするの? 赤き狂気に耐えるすべなどないと知りながら」

「……あなたがなぜそんなことをいうの? なぜ、あなたは私を知っているの? どうしてあなたが私を憐れむのよ!」

 軋みをあげる心の底からの呻きが、畏怖さえ乗り越えて叫びと化した。

「あなたに人間の心なんかないでしょう? 人間だったことなどないはずのあなたに。だったら何がわかるというの! 生まれながらの悪魔のくせに! この世の災いの元凶のくせにっ!」

 だが清水を湛えた淵のような瞳には、波一つ立たなかった。

「おまえは知っているはず。魂を持つのは人間だけではないと。丘の上のあの魔獣にだって魂はあることを。
 そして過度の苦しみが心をいずれ歪めるのも人間に限った話ではないと。心のありかたに違いなどありはしないのだと。
 だから私はおまえに問うのよ。なぜ自分をそんなに追いつめるの? 苦しみをそうして心に積み重ねるの? 西の森のあの者の魂の救いを願ったおまえが、なぜ自分にはそうしない?」

「なぜあなたがそれを知っているの? 魔の森に囚われたあの人のことまで!」

「あの者はかつて私の牙を受けた者。だからおまえが伝えたことは、すべてそのまま私に伝わったのよ」

「あなたがあの人を! 牙にかけたばかりか記憶の欠片を取り戻したあとも放っていたの? 苦しんでいると知りながら!」

「私たちが自然にふるまうというのはそういうことよ。おまえが人間だったとき、牛や豚のことを考えていた? 彼らには恐怖も苦しみもないとでも?
 それに転化自体は苦しみではない。生まれ変わるだけなのだから。確かに無事に転化できるとは限らない。牙にかけた者が転化した環境と異質すぎる場所では目覚められずに死んでしまうし、目覚めて一昼夜の間に血を得られなくても死に至る。
 でも、それはおまえのいう苦しみとは関係ないはず。おまえはむしろそのまま死んでいられたらと思ってきたのだから。もしも自分も意識や記憶をなくしていればとさえ、あの森で考えたはずなのだから」

 乙女の目が、波立たぬ湖面のような静けさの下に深みを秘めた瞳がリアの魂を見つめていた。相手への畏怖が戻ってきて昂ぶる感情さえも圧倒した。

「無事に転化を遂げたならば普通は人間だった時の記憶を失う。持って生まれた気質だけが残る。そして無垢の状態から記憶を積み始め、それまでと違う存在として新たな時を刻んでゆく。あの者の森との絆やおまえの感応力のようなもともと持っていた力を固有の特色とする存在として。
 それが吸血鬼としての自然な姿。おまえもあの森でそう思ったはずよ。転化したこと自体が苦しいのではない。自然な在り方に至れなかったからこそ自分たちは苦しんでいるのだと」

 碧い瞳に憐れみが浮かんだ。その目を見ていられなくなって、リアは面を伏せた。

「おまえたちは望んだわけでもないのに吸血鬼の理からはずれてしまったから苦しんでいるのよ。あの者は森との絆の神秘ゆえに昔の姿のわずかな記憶を何度でも取り戻す。そしておまえは牙にかけた者の憎悪ゆえにただ苦しめと呪われ吸い残された。だから私は憐れむの。
 けれど救いは理に従うことでしか得られない。でないと滅びをただ願い続け、そして焦燥に心軋ませる。今のおまえのように。それが続けばおまえの魂もいつか歪む。おまえはそれをなにより恐れているはずなのに」

 リアはもはや言葉もなく、ただ足下を、暴かれた自分の内心を見つめるばかりだった。

「人間の意識も記憶も残したおまえが自分をおぞましく思うのは仕方がない。おまえにとっては同族殺しなのだから。その気持ちが抑えがたいこともわからないではないわ。そのままではとても理に従うことなどできないことも。
 けれど、おまえはもうわかっているはずよ。理に逆らい続けることは自分の魂をわざわざ痛めつけることに他ならないと。心を歪ませる道をあえて歩むことを意味するのだと」

 乙女の碧い眼がリアから離れ、はるか北に向けられた。それは最果ての森のある方角だった。

「そんなおまえがあの者の苦しみを救いたいと思った。けれども人間だったときの記憶を取り戻す願いを叶えるすべはなかった。私だってそれは同じ。そんなことは誰にもできない。
 そのときおまえはあの者に自分の記憶を全て伝えた。そうすることであの者の目を失われた過去から今の己の姿へ、そしてその身のゆく末へと向けさせた。おまえはそうしてあの者を呪縛から解放したわ。おまえにしかできない方法で。私にさえもできないことを。結果的なものだったとしても。
 知りたくない? あれからあの者がどうしているか。何を思い続けているか」

 思わず顔を上げたリアの目を、ふり返った純白の乙女の視線が再び捉えた。

「森と深き絆持つあの者は希有な存在でもあるの。森に囚われ妖気を吸われている反面、森の癒しの魔力のおかげで渇きに苦しむことがない。だから心が軋むこともない。おまえと会って初めてあの者は、自分と違う苦しみに落ちた者の存在を知ったのよ。
 あの者はおまえの歩みに思いをはせ、自分をそこに当てはめているわ。おまえの歩みを理解しようとして、そして現在の自分を捉え直そうとして」

「……あの人が、あれからずっと?」
 とまどいを隠せぬリアの言葉に白髪の乙女はうなづいた。

 リアの脳裏に光も漏らさぬ魔性の森に囚われた黄金の髪持つ乙女の姿が、冠を頂いた丈高き姿が浮かんだ。人間に闇姫と呼ばれながら、大きな緑の瞳をただ哀しみに染めていたあの姿が。

「そしてあの者の煩悶は軽くなった。失くした過去への哀しみは残っていても、魂を苛む呪縛が解かれのだから。それがおまえのなしとげたことよ。自らの呪縛を解けずにいるおまえだったからできたこと。
 あれからあの者は、ずっとおまえと出会ったあの夜のことを思い返しているのよ。森に阻まれもう会うこともできないおまえのことを。そして緑の闇の中で願っているわ。いつかはおまえにも安らぎがくるようにと」

「……願ってくれているの? 安らぎを、こんな私に……?」

 胸の奥からせり上がってきた感情が涙となってあふれ出たが、それは初めて経験するものだった。心の生傷にしみ込みながらも苛むことなく癒し潤すものだった。そんな涙を流すことなど思いもよらなかった。人々をただ無残に殺めるばかりのこの自分に、よもや思いを寄せる者があろうとは。安らぎを願う者などあろうとは。この心がこんな感謝や慰めを覚える日が来ようとは!

 信じられぬ思いにただとまどいつつ、いくら両の拳を口に当て抑えようとしても涙はとめどなく流れ出た。ぼろぼろだった心も際限なくそれを吸い込んだ。月と星々の銀色の光を浴びてゆるやかにうねる平原の中、リアはただ初めての涙にくれていた。
 白髪の乙女はその姿を静かに見守っていた。その碧い瞳は水鏡のように少女を映していた。

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