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2018年04月10日11:35

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天地創造の前、神は何をしていた?

アウグスティヌス『告白』で神が時間を創ったと論じている部分を通過した。第11巻は天地創造について書かれているが、特に時間に関して力点が置かれている(「天と地」の創造については第12巻のほうが詳細に論じられていた)。

「ではいったい時間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです」はよく知られた言葉だ。

「天地を創造する以前、神は何をしていたか」という問いに対して「この深い玄義をせんさくする人々のために地獄を準備しておられた」という冗談に対して彼は怒っている。そんな茶化したことを言うくらいなら知らないことは「知らない」と答えたほうがいい、と。しかし彼は、知らないとは言わず、大胆に断言する。「天地を創造する以前、神は何もしておられなかった」と。

人間にとって未来は「まだない」ものであり、過去が「もうない」ものであり、それらが通過していく「今ある」が現在である。しかし神はその全てを保有しているので「有るもの」がなくなったり、「ないもの」が生じたりする世界を超越している。つまり神にとって時間そのものが必要でもなければ、存在もしない。「有る」という現在が過ぎ去り過去という「無いもの」になる「時間」は被造物が創造されたとき、神が同時に創った被造物たちのためのものである。神がまだ時間を創っていなければ「天地創造をする以前のとき」そのものが存在しない。そうした問いじたいが人間しか抱かない問いである。

だが人間にとっての時間とは何かを考えることは無意味ではない。「まだない」ものも「もうない」ものも、「ないもの」であるなら長さを比較することも無意味である。しかし、時の長さを人間は「現在」の中で知る。過去は「記憶」という現在を生きることによって、未来は「期待」を感じる現在を生きることによって。「現在」とは常に未来が流れ込んでは過去になっていく瞬間であるが、それはどれだけ細分化しても得られない点のようなものに私には思われ、ますます混乱する。これに対してアウグスティヌスは、過ぎ去ってしまったものを測ることはできないが、「過ぎ去ってゆくとき」には測られるという。それは「何らかのひろがりにある時」だからだと。ここが非常に重要なところだが、私には説明できない。おそらく神にとってはその「ひろがり」は全てを覆う全能と永遠なのだろうが、人間には過ぎ去りつつある「現在」というごく限られた「ひろがり」なのであろう。そこを生きて死ぬのだ。だからこそ、人間に時間は何物にも代えがたい、いとしい贈り物なのである。アウグスティヌスとは神の存在をめぐって意見が異なるが、それでも共感を感じるのはこういう部分においてである。


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